「マジョリティ属性の主人公を成長させたり動機づけさせたりするギミックとして雑に殺されて物語から退場するマイノリティ属性のサブキャラ」くらい「冷蔵庫の女」と同等な表象としての問題点がないならば、わざわざ「冷蔵庫の〜」という既存の用語を流用しないでほしい。
「冷蔵庫の女」と同等の問題意識や批評性がない表現(キャラ・脚本・表象)について「冷蔵庫の〜」と持ち出すのは、全くの無意味。
そして、あらゆる「死亡するキャラ/死亡しているキャラ」を全て「冷蔵庫の〜」と呼ぶことは、ある意味でwhataboutism(じゃあアレはどうなんだ論法)のように、その件の批判点を無関係な別の行為への批判とすり替えて元の件の問題点を矮小化しうやむやにさせる論理的誤謬を誘発させる。
つまり、作中でキャラが死亡するあるいは死亡している展開を手当たり次第に「冷蔵庫の〇〇」と呼ぶのは、批評・分析としてもミスリードが過ぎていて無意味に近く、そして「冷蔵庫の女」の持つ批評性を毀損している。
なんでもかんでも有名な用語やフレーズをモジッたキャッチーな単語にすればいいわけではない。既存の言葉の持つ意味と働きを損なわせる流用でないか、既存の言葉に寄せるとき、そしてそれがマイノリティによる抵抗の言葉であるとに、特によく考えてほしいなと思う。 2/2
追記。
当たり前だけど、フィクションの作中で女性キャラが死によって物語から退場したとしても、その全てが「冷蔵庫の女」ではないです。「作中で死ぬ女性キャラ」イコール「冷蔵庫の女」ではない。
女性キャラなど、社会的弱者の属性を持つキャラが作中で死によって退場させられてしまうこと、そしてその描写が社会に多いこと自体にはもちろん問題があり、それは批判・批評・分析されるべきです。
ただ、なんでもかんでも「冷蔵庫の女」ではない、ということ。
似た話題に「マニック・ピクシー・ドリーム・ガール」や「ボーン・セクシー・イエスタデイ」「ダムゼル・イン・ディストレス」「黄金の心を持った娼婦」「メアリー・スー」等もあるけど、これらも結構ごっちゃにされてたり、なんでもかんでも一つの用語で"説明"(こじつけや誤用を含む)されていたりするので、そういうの見ると「雑やなぁ」と思う。