村(集落)の自治会総会である、とて出かけてみたら年に一度の祭祀だということが今年もあった。自治会の議事をそこそこに済ませて斎服を着た宮司から大麻札と暦をいただく。それから宮司は祝詞をあげて榊を振る。氏子総代が祈りを捧げる。
祝詞の中に、こうして神に祈りを捧げるわれわれは何者であるのかという宣言があって、それによるとわれわれは「みやがわちのさとびと」であるということだった。ふだん意識されることは無いけれど、この土地で生活していくことの底にはそういう認識があるのだなと思った。われわれは公には何者であるのかという問いへの、この土地における一番古い形式の答えがそれで、そしてそれはまだ生きているということだ。
外から来た自分が「みやがわちのさとびと」であるかはまあ、半分くらいというか準会員というか、住んでるんだからそうなんだけどまあ、ね、くらいの認められ方であると思う。ここへ越してきてけっこうな年月を過ごしはしたけれど、お宮を中心とした行事に参加することはあまり無いから。
この「生活の底」は、だんだん抜けつつもある。人が十分にいないので行事は年々簡略化されるし、来年、氏子総代の役目はものすごく年をとった爺様からかなり年をとった爺様に委譲される。あとにはそれなりに年をとった爺様が続く。どうなるかな。