消費社会の話で思うのは、「欲望」が満たされることが「幸せ」である(満たされないのは不幸である)という大前提で、普通私たちは現代社会を生きているけど、

精神分析は、むしろ「欲望」があるのにそれが「満たされない」ということの体験を促す。

プラスではなくマイナスの発想。

で、その最大のものがエディプス・コンプレックス。「お父さんを排除してお母さんを自分のものにして結ばれたい」という欲望をどこかで断念した時に、人は初めて社会性を身につけた人間になる…と。

欲しいと思ったら、それはその瞬間に満たされていなければならない(欠乏を体験することに耐えられない)という人は、皆さんが思っているよりも世の中には大勢いて、でももちろん欲しいと思った瞬間に満たされることは普通あり得ないので、どうするかというと満たされたという幻想の中に生きるか(でもことあるごとにそうではないという現実が垣間見えてしまうので、その時はそれを満たさない現実への激しい憤怒に変わる。例えば自分が好きなのに自分のことを好きではない女の子への怒りなど)、または「自分の中には欲望などない」という形で欲望と現実のギャップの体験(欲求不満)を回避する。

精神分析はその欲しいのに手に入らないというギャップの体験(喪の作業)ができるようにする営み。

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なるほど〜 今の世界はネットで何でも調べられるし、欲しいものは手元にすぐ届くし、自分が見たいと思う前に好みの動画が現れるし、そういう体験が日常になるということは社会性が育っていない人間が多くなるということも言えますかね?

そういうこともあるのかも知れないとは(我と我が身をかえりみて)思いますが、精神分析って基本的にうんと小さな頃にその人間の心の大枠が出来上がるという前提でものを考えるので、やはりエディプス・コンプレックスとかの話になるんですよね。

ここで言う社会性みたいなものは、「現実検討能力」みたいなこととも重なっていて、要は「自分の願望と、現実は残念ながら違うんだよ」ということを受け入れて認識する能力で、例えば今の自民党のオッサンたちは、そこの部分が怪しいというか、ヤバそうな人たち、多いじゃないですか。ああいう人格はかなり幼少期の精神発達の問題と見るんです。

でも、幼児期にちゃんとクリア出来なくても、その子の人生でちゃんと悔しい思いや悲しい思いを体験できる機会があれば、成長の機会はあるかも知れないので、そこでなんでも手に入る夢の世界にずっといられる環境はヤバいかも知れませんよね。

私がいつも気になるのは、例えば生殖医療や美容整形など、昔だったらどこかで仕方なしに諦め“られて”いたことが、お金さえ出せば、際限なく実現可能だったりするのは、幸せなことなのか、不幸なのか、悩ましいなぁ…と言うことですかね。

まぁこれからの大半の日本人は、その先立つお金が出せなくなるので、そのような現代人の苦悩は味わわずに“済む”のかも知れませんが。

でも、一番の不幸は、「喪失を体験できない人は、絶対に、自分のものではない人や物やことを好きになったり、惚れたり憧れたり出来ない」と言うことなんですよね。「片思い」ができないんですよ。

相手がどうであれ、自分は誰かを(何かを)好きだと言う気持ちを体験できない。

「非モテ」だと騒いで女を迫害したがっている人たちはソレなんです。彼らは女性を自分から好きになれない。そして女性の側から自分のことを好きだと言ってこないことを恨んでいる。あれも欠乏(欲求不満)を体験できないからです。

でも、恋というのは、その自分の方の切なさや苦しさがあるから素晴らしいのであって、「自分は何とも思ってないけど、他人も羨むような美人が向こうから何人も寄ってくる」なんて、人間の情緒的な体験としては何の価値もないですからね。でも“モテ”を求めている人たちが欲しいのはそれだけなんですよね。

私はファンという言葉には「憧れ」のニュアンスがあったと思っているのですが「推し」というのは何も傷つく必要のない消費者の感覚だと思っています。

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