まぁこれからの大半の日本人は、その先立つお金が出せなくなるので、そのような現代人の苦悩は味わわずに“済む”のかも知れませんが。
でも、一番の不幸は、「喪失を体験できない人は、絶対に、自分のものではない人や物やことを好きになったり、惚れたり憧れたり出来ない」と言うことなんですよね。「片思い」ができないんですよ。
相手がどうであれ、自分は誰かを(何かを)好きだと言う気持ちを体験できない。
「非モテ」だと騒いで女を迫害したがっている人たちはソレなんです。彼らは女性を自分から好きになれない。そして女性の側から自分のことを好きだと言ってこないことを恨んでいる。あれも欠乏(欲求不満)を体験できないからです。
でも、恋というのは、その自分の方の切なさや苦しさがあるから素晴らしいのであって、「自分は何とも思ってないけど、他人も羨むような美人が向こうから何人も寄ってくる」なんて、人間の情緒的な体験としては何の価値もないですからね。でも“モテ”を求めている人たちが欲しいのはそれだけなんですよね。
私はファンという言葉には「憧れ」のニュアンスがあったと思っているのですが「推し」というのは何も傷つく必要のない消費者の感覚だと思っています。
@PepperAdelaide
そういうこともあるのかも知れないとは(我と我が身をかえりみて)思いますが、精神分析って基本的にうんと小さな頃にその人間の心の大枠が出来上がるという前提でものを考えるので、やはりエディプス・コンプレックスとかの話になるんですよね。
ここで言う社会性みたいなものは、「現実検討能力」みたいなこととも重なっていて、要は「自分の願望と、現実は残念ながら違うんだよ」ということを受け入れて認識する能力で、例えば今の自民党のオッサンたちは、そこの部分が怪しいというか、ヤバそうな人たち、多いじゃないですか。ああいう人格はかなり幼少期の精神発達の問題と見るんです。
でも、幼児期にちゃんとクリア出来なくても、その子の人生でちゃんと悔しい思いや悲しい思いを体験できる機会があれば、成長の機会はあるかも知れないので、そこでなんでも手に入る夢の世界にずっといられる環境はヤバいかも知れませんよね。
私がいつも気になるのは、例えば生殖医療や美容整形など、昔だったらどこかで仕方なしに諦め“られて”いたことが、お金さえ出せば、際限なく実現可能だったりするのは、幸せなことなのか、不幸なのか、悩ましいなぁ…と言うことですかね。