子供の頃に雪玉に石を入れてぶつけられたことがあり、先生に大泣きして訴えた事で、雪玉を当てた子が菓子折りを持って家に謝罪にきた事があったんだけど、その前段階でみっしり先生からも自分の親からも事情をきかれ、何度も説明をしているうちにだんだん自分の記憶が怪しくなっているのを感じた。
菓子折りを持って相手側が謝罪にきた時に、相手がしっかり罰された上、お菓子という思わぬ副産物に嬉しくなる自分がいたけれど、先方が帰ってから母が「可哀想に。相手の子は過度に叱られてはいないだろうか。」とこぼし、途端に『これは正当な訴えだったのか?私は自分が痛かった報復を求めてその子に過度な罰を望み、気付かぬうちに自分に都合がいいように話を作っていたりしないか?』とうすら寒くなった事があった。
自分で確信していた記憶でも、何度も聞かれるうちに外からのプレッシャーと身の内の訴えたいという思いで、記憶というのはあやふやになってしまうものなのだという事を身を持って実感した。