杉田俊介「とにかく本来自分たちが持っているはずの権利とか安全が誰かに奪われている、という不安がまず先行してしまう。
排除から剥奪へと、何かが変わった。「剥奪」という場合、それを奪う他者がどこかにいる。それは外敵だったり、共同体の資源を無駄に食いつぶす依存者や既得権を持つ者かもしれない。そうした敵から自分たちのテリトリーを守る、そのために先回りして攻撃するのは当然だ、という感覚があるのではないか。」
「現代はグローバルな被害者意識の時代。
まず漠然とした剥奪感が先にあって、それを正当化するために敵を見つけようとしている。
それが在日コリアンだったり、中国の脅威だったり、権利を主張する女性や障害者だったりする。
現代的なヘイトというのは、はっきり言えば誰が対象でもいい、
自分たちを脅かす存在として名指しできる対象であればいい。」
熊谷晋一郎「供給が足りていないならば、みんながもっと働いて商品を生産する必要がある。けれども現在、足りていないのは需要なわけですから、それはみんなが「我慢しすぎ」だということではないでしょうか。本来であればもっと需要があるべきところを、みんなが我慢して買わないものだから、経済が回らなくなっている。
非常に素朴かもしれませんが、そういうふうに考えると、いま問題にされるべきは個々人の「生産性」ではないはずです。むしろ個々人の「必要性」をもっと言わなくてはいけない。みんなが我慢して、本当は助けてほしいのに「助けて」と言えないし、本当はもっと生きたいのに「これ以上生きなくていい」と言わされている。」
「必要性と生産性というのは、ひとりの人間に備わった二つの側面ですが、どちらに価値が宿るかといえば、生産性ではなく必要性だと思っています。なぜかといえば、生産性というのは誰かの必要性を満たしたときにのみ二次的に価値が発生するからです。
誰のニーズも満たさない生産性にはなんの価値もありません。
だから、二つを比較するなら明らかに必要性に優位があるのです。その順序を間違えてはいけない。言い換えれば、つまり「堂々と生きていていい」ということなんですが。」