@tenjuu99 本自体は未読なのですが、ポストヒストリーとか脱文脈化とかいう話にはこういう対立がついて回りがちですよね。
https://fedibird.com/web/statuses/110473438759877008
@tenjuu99 ありがとうございます。おそらく自分の立場というものが仮にあるとすれば、外部から芸術の諸制度における構造的な欠如を指摘する視点もまた、正当かつ明確な原則やルールという形で制度化されなければ、一定の機能や効果として社会の中に定まったポジションを得ることができないということだと思います。
ただ、李氏さんの投稿は、ダントーのテキストとは独立に、しかしどこか隠れた関係があるようにおもわれ、興味深い投稿だなとおもいました。
ダントーはいわゆるアートワールド論で有名で、それは「アートワールド界隈の人間の認識があるオブジェクトをアートだと見做すからアートになる」という、雑にいえばそういう話ですが(ちなみにこれは厳密にはダントーの見解そのものではなくジョージ・ディッキーによるものですが)、この見解は、ちょうどクリフォードが言うような制度としての美術館・博物館、および美術史学と人類学のオブジェクトの分類システムと、形式的には似たものでありながら、まったく別な制度論として成立しています。
クリフォードは、ある文化がどのようにして他の文化を取り込み、あるいは逆に取り込まれ、反発しあいながらも混じり合い、といった過程において制度が果たす役割を分析したとおもいますが(具体的な力関係も視野にはいっている)、ダントーのなかにあるのは、あくまで芸術の成立条件について問うもので、その意味において芸術を取り巻く制度論をやっている。この点からすると、ダントーの制度論は、制度にたいする批判的な視線を持ちようがなく、彼の分析は、鑑賞者があるオブジェクトを芸術だと認知するための仕組みに制度が機能するあり方です。
李氏さんの対立も、若干違った視点ですが、つまり、芸術の内部からみた問題設定と、その外部から芸術の制度性について扱う、という対立としても整理できそうかなと感じました。長くなってしまった...。