価値中立的概念が差別と関連づけて理解されると混乱がより深まる。例えば、インターセクショナリティとマイクロアグレッションを例に出すと、前者はあくまで現実を分析するためのツールにすぎないのに対し、後者は実際に起きている現象そのものである。両者は根本的に異なる概念なのだ。ところが両者を「社会正義」のような思想とさらに関連づけてしまうと両者がまったく別の概念であることが理解できなくなる。分析ツールにすぎないものに過度に期待が注がれ、現実を解決するための便利な道具として召喚されてしまう。
何が言いたいのかというと、元々言い表そうとしていた意味内容以上のものを読み込まない、期待しないという捉え方は混乱を防ぐ方法として有効なのではないかということだ。ポジショナリティやインターセクショナリティはあくまで分析概念であり、それ以上でも以下でもない(特権は現象形態かもしれないが)。それぞれの概念が直ちに社会正義と結びつくわけではない。この意味をもっと深く考えるべきではないか