立場理論における特権は、ポジショナリティによって被る利益または不利益が異なるので自身のポジショナリティや他者のポジショナリティに注意を向けようという内省的なものだと思うが、これが他者に特権があるという前提から出発してしまうと、お前は特権があるのだから反省しろという他者のポジショナリティそのものを糾弾する方向にいく危険がある

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しかし内省的な特権理解はまた「ノブレス•オブリージュ」のような理解をされる恐れがある。つまり余裕がある者は貧しい者のために施しをするべき義務があるなどと高踏的な理解をしてしまうと相手を対等に扱うことができなくなってしまう。

上の二つの誤解を避けるには、ポジショナリティや特権を価値中立的なものとして捉え直すことが必要のように思う。ポジショナリティや特権そのものに意味を付与しない、つまりそれぞれのポジショナリティや特権と「恵まれている」「不正だ」といった価値観との結びつきを一度断つことから出発することが混乱を防ぐことにつながるのではないか

価値中立的概念が差別と関連づけて理解されると混乱がより深まる。例えば、インターセクショナリティとマイクロアグレッションを例に出すと、前者はあくまで現実を分析するためのツールにすぎないのに対し、後者は実際に起きている現象そのものである。両者は根本的に異なる概念なのだ。ところが両者を「社会正義」のような思想とさらに関連づけてしまうと両者がまったく別の概念であることが理解できなくなる。分析ツールにすぎないものに過度に期待が注がれ、現実を解決するための便利な道具として召喚されてしまう。

何が言いたいのかというと、元々言い表そうとしていた意味内容以上のものを読み込まない、期待しないという捉え方は混乱を防ぐ方法として有効なのではないかということだ。ポジショナリティやインターセクショナリティはあくまで分析概念であり、それ以上でも以下でもない(特権は現象形態かもしれないが)。それぞれの概念が直ちに社会正義と結びつくわけではない。この意味をもっと深く考えるべきではないか

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