以上の知見から、私は「人権批判は注意深く行わなければならない」と主張する。なぜなら、それは人権を弱め否定したい勢力に悪用されるおそれがあるからだ。
ローティの人権批判への私の反論は、以下のようになる。問題なのは誰かを非-人間化する言説なのであり、人権という概念なのではない。そもそも、ひとりの人間が"共感"できる対象は、限られている(共感はコストが高い)。日本の入管に収容された外国人、性別違和感に苦しむトランスジェンダー、ヘイトスピーチを受けている在日外国人、ガザで虐殺される人々、ウクライナの占領地で殺害された一般市民たち、さらには歴史を遡り、広島・長崎の被害者たち、ホロコーストの被害者たち——すべてに"共感"していたのでは、とうてい1人の人間の容量には収まらない。人の判断コストを下げ処理容量を増やす上で、国際人権法という明文化されたルールは非常に重要である。そして人権という概念はローティが唱える『分厚い物語による共感』『連帯のための言葉』となんら矛盾しない。
(続く
ローティのようにすべての抽象概念を「偶然性によるもの」として相対化するのは一つの哲学的態度ではあるだろう。しかしながら、このアプローチにはきりがない。「国家」「貨幣」「市場」「資本主義」「株式会社」「法律」などの概念も、言葉による抽象概念には違いない。これらも、「偶然性によるものであり再記述が可能なもの」としていったん保留、排除して考えた方がよい概念といえるだろうか。
「人権」(ここでは国際人権法の体系)は、「法律」の隣にある概念といえる。ローティを用いて言えば、国際人権法も「歴史的な偶然性による再記述可能な言葉」ではあるのかもしれないが、しかしそれは私たちの社会的合意(国連決議、各国の条約批准)に基づく明文化された決まり事である。人権を排除する立場を徹底するのであれば、例えば「民主主義」や「資本主義」や「アメリカ合衆国憲法」も同様に排除して、ゼロベースで考えなければならない、ということになってしまうだろう。
人権は大事な社会的資産だ。哲学的に批判することはもちろんあってよいが、それは悪用されないような言葉を選んで語られることが好ましいと考える。
(おしまい)