NHK番組テキスト「NHK 100分 de 名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 2024年 2月」が自分の問題意識にちょうど刺さって非常に面白く、一気読み。特に、人権批判のくだりは居住まいを正して読む。
https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/pEwB9LAbAN/bp/poVnBqWgLo/
ローティの議論(大意):
ローティは、哲学の役割は、本質や真理を追究するのではなく(なぜなら、それは「会話を終わらせてしまう」からだ)、終わりなき会話を成り立たせ、異なる人々を「連帯」できるようにするための再記述のやり方を提供し、"文化政治"をすることだ——と提案する。これは、本質や真理を追究する伝統的な哲学に対するアンチ哲学といえる。
言葉は私たちを創造している。人や社会は、形になった(受肉した)「言葉」である。言葉は常に異議申し立てや「再記述(語り直し)」に開かれている。
だが、「再記述」の可能性とは、他者を非-人間化して虐殺する言葉を作り出す可能性にも開かれているということでもある。ルワンダのジェノサイドでは、「言葉」の使い方が大きな役割を果たした。だから、言葉の使い方=文化政治に対して私たちは注意深くある必要がある。
(続き
私の感想:
「理論家よりもジャーナリストが重要である」という部分は、私自身も居住まいを正して読んだ。ジャーナリズム=個別的具体的な物語の分厚い積み上げが重要であることには異論はない。
ローティの議論は、イギリス経験論、アメリカのプラグマティズムの伝統を汲む。「共感が大事」という発想はアダム・スミスの「道徳感情論」からの伝統。大陸の形而上学を否定する発想も英米系の哲学者の伝統といえる。
たしかに、人権の根拠は「すべての人が本質的に持つ不可侵、不可分な権利群」という抽象的で形而上学的なものだ。「人権は人の理性、尊厳に由来する普遍的な原則である」と考える点において、人権はカント倫理学の影響下にある(なおカントと人権の関係については議論が絶えない。逆にいえば、議論が絶えないほどの深い関係があるのだ)。
一方、ローティは、形而上学的で普遍的な真理・本質の追求を否定するところから出発しているので、カント倫理学も当然否定する形になる訳だ。
私の意見だが、もちろん共感できるなら共感した方がいいに決まっている。だが、"かわいそうな人達の物語"を読んで共感しなければ人権が守れないようではコストがかかりすぎる。そして発想が古い。(続く
奴隷解放に影響したといわれる「アンクル・トムの小屋」は19世紀の小説だ。だが、例えば20世紀の悲劇(例えば世界大戦、ジェノサイド、原爆)は共感できる文学作品の対象として巨大で複雑すぎる。それに世界中至る所に存在する膨大な数の人権問題を理解するのにいちいち共感を動かしているのでは追いつかない。
人権問題がそこにあるなら、実務的に理屈で対処しなければ追いつかない。国際人権法の体系は、長年の経験からの知見を取り込んでおり、大きな間違いが生じないように注意深く組み立てられている。それは哲学思想というより、各国の行政機関、国連、人権NGO、それに個人にとっての規範、判断基準だと考えればいい。
そして数ある人権問題の中で、分厚い物語の積み上げに触れてより深く共感した問題があるなら、その知識と共感に由来する情熱を用いてより有効な取り組みを模索するのがいい。もし既存の国際人権法の体系に過不足があることが分かれば、そこは修正していけばよいのだ。
例えば、デジタル技術の社会的影響と人権の関係は、2010年以降に議論や法整備が進んでいる段階だ。SNSの膨大なハラスメントやヘイトスピーチ事例を、いちいち共感して対処していたのでは間に合わない。国際人権法という基準に則って事務的に進めるのがベターなやり方だ。
(続く
哲学者は、こうした「実務レベル」の回答には満足しないだろう。ひとついえることは、人権とは国際社会が合意した国際法体系であり、そしてツールとしてすでに(限定的だが)機能し役立っている。「それは歴史的に構築され社会に組み込まれた言葉のツールである」「問題なのは誰かを非-人間化する言説であり、厳重な警戒が必要である(なので一部先進国ではヘイトスピーチ法制化が進んでいる)」としてひとまず納得してもらうのが現実解だと考える。
そして、人権は、本来は連帯のツールだ。なにしろ「すべての人の権利」のことなのだから。例えば人権を重視する集団Aと人権を軽視する集団Bがあったとして、人権をAとBを対立させる概念だと考えることは間違いだ。定義により集団Bの人々にも平等な人権があるのだから。
だから右派と左派の対立の図式で人権が話題になることは、実は不自然なこと。人権を連帯のツールとして使うための「言葉」を考えていきたい、というのが私の立場です。
(おしまい)
補足:本のタイトルにある「偶然性」「アイロニー」について
- 私たちの言語(ボキャブラリー、概念、ことばづかい)は歴史的な産物という意味において偶然的なもの
- 改訂に開かれた終極の語彙(ファイナル・ボキャブラリー)
- 偶然性からの連帯の契機
- アイロニーは常識の対極にある。(1) 自分たちが使う終極の語彙を常に疑う。(2) この疑念は今使っている語彙を使う議論では解消できない。(3) 自分の語彙が他の語彙より実在に近いとはいえない。
- バザールとクラブのたとえ
- 私的なクラブはアイロニーを育む場
- 恐怖に対峙するリベラリズム=残酷さの最小化
- リベラル・アイアロニスト(残酷さを避けるチャンスが再記述で拡大されることだけを願う)と、リベラルな形而上学者(自己の本質を明らかにする再記述を求める)
ふたたび感想:
ローティは「本質になど到達できない」と形而上学を否定する懐疑論。
一方、カントの道徳哲学は、人の義務を形而上学的に基礎付けられた普遍的な原則と考える。対極にある。
私個人は、カント哲学は国連や国際人権の基礎であり人類全体の資産だと思っています。なので懐疑論には同意しない(米国の国連軽視の思想的根拠とすらいえるかもしれない)。それでもローティの議論は読む価値があります。
ローティの哲学は「アンチ形而上学」が特徴。そこで「人間が本質的に持つ権利=人権」という形而上学的な概念は、むしろ「言葉により非-人間化」された相手手に対してより残虐に振る舞うことになる結果につながりかねないと批判する。
ローティが推奨するのは、分厚い物語の積み上げ、エスノグラフィによって残酷さを理解できる「共感」を養うこと。これは哲学者のような理論家よりも、作家やジャーナリストが向く仕事である——。
私の反論:
人権に関するローティの主張をうんと短く言うなら、「"人間の本質"といった理屈の言葉に頼るのは非-人間化された対象への残酷さを肯定してしまいかねず、かえって危ない。むしろ残酷さを避けるための"共感"を生み出す物語が大事である」ということになる。
それに対する私の反論は「問題なのは誰かを非-人間化する言説なのであり、人権ではない」「共感はコストが高い。人の判断コストを下げ処理容量を増やす上で、人権という理屈はやはり重要である」。
ローティの「語り直し、言葉の再記述が、"われわれ"の拡張、異なる人々の連帯のために重要である」「物語が重要である」という主張には同意する。ただし、人権はこの主張に矛盾しないと私は考える。
(続く