斎藤幸平は『人新世の資本論』で「SDGsは大衆のアヘン」と切り捨てた。同書の本題であるマルクスの「宗教は民衆のアヘンである」に倣った言い方。これは本来のSDGsにとっては災難だった。
https://www.moneypost.jp/1112680
マルクスに立ち返り、資本主義や経済成長そのものを疑うスタンスの斎藤幸平氏にとって、資本主義を肯定するSDGsを「敵」認定することは、まあまあ整合性は取れているのかもしれない。ただし私個人は、SDGsを「敵」認定することには賛成できない。むしろ擁護したい。
私の意見では、言葉を足して「"一人一人が生活を工夫しよう"という文脈で流布している"日本のSDGs"は民衆を騙すためのアヘンである」という言い方が正しい。
本来のSDGs、国連が2015年に打ち出した「持続的な開発のための2030アジェンダ」とは、脱炭素、格差是正、水の安全など多数の「2030年までに達成すべき数値目標」を掲げ、国家や企業や投資家らが、その目標を達成できる方向にマネーを選択的に回し、経済を回そう、という取り組みだった。「誰一人取り残さない」というスローガンは、個々人ががんばりましょう、という話ではない。すべての個人を救う方向に経済を回しましょうという意味だ。
(続き
@AkioHoshi こんにちは。SDGsは1.5℃目標同様に分かりやすい目標であって、政府の方針や企業活動の実態が伴っていないからと頭ごなしに否定するのは、本末転倒です。
既視感があるのは、国内で「憲法9条はお花畑!」という声は常にあっても、「9条をなくせ!」とまで言う連中は端から平和など願っていないのと同じということ。
この期に及んで日本人というか日本社会で大事な目標を失わせたら、それこそ目も当てられない程に悲惨な状況になるだけでしょう。
日本においてSDGsが"一人一人が生活を工夫しよう"と誤解させようとしていることは、「人権」が個々人の思いやりであるかのように誤解されている状況と似ている。どちらも、本来は「力を持つもの」に向けた概念なのだ。
SDGs(持続的な開発のための2030アジェンダ)の大事なところは、各国の政府、それに世界経済フォーラム(ダボス会議の主催団体)や、その他の経済団体が大筋で合意したこと。金融経済界の合意を作ったことは、大きな前進といえる。
一方、憂慮すべき動きも出てきた。米国の共和党支持の州は、環境に配慮する経済、経営を嫌い、「反ESG(ESGは環境・社会・ガバナンスの略で、企業経営に新たな指針を持ち込む動き)」を掲げる。ESGを市場経済の自由に介入する左派的な動きと決めつける。いまや「脱炭素は左派エリートの陰謀」みたいな言説が力を持ち始めている(トランプもこの立場)。
米国保守派の反ESGはいわば"反動のための反動"だが、斎藤幸平がマルクスを引いて「SDGsは大衆のアヘン」と唱えるとき、トランプら米国保守派と一緒にSDGsを攻撃する形になってしまう。
ここは再考の余地があると思うのです。