フォロー

速水 融編(2003)『歴史人口学と家族史』藤原書店

「『都市墓場説』は、近代技術が都市生活に導入される以前、都市の死亡率が出生率を上回り、農村部から人口流入を必要としたことを説いた考え方であり(Wrigley, 1969)、日本では、編者[速水]自身が『都市蟻地獄説』…と名づけたものと同様である。これに対して、都市では、人口の流動性が高く、独身率が高く、他方、都市の富裕層では、出生率は高かったとする批判が、A. シャーリン(Allan Sharlin)によって唱えられ、国内では斎藤修が江戸と大坂の都市居住者について考察し、同様の結論を導いている」11頁

Saito, Osamu. (1996) “Historical Demography: Achievements and Prospects,” Population Studies 50.
=中里英樹訳「歴史人口学の展開」53-79頁

「唯一、18世紀後半の早い時期に婚姻出生力が低下し始めたフランスだけが例外である…言いかえれば、工業化以前のイングランドの人口は、そしておそらく他の多くのヨーロッパ諸国の人口も、『自然出生力』の人口だったのである」57頁

「人口理論の分野における戦後の2つの発展…1つは『自動制御的(homeostatic)』人口学的様式(demographic regime)という概念が広く受け入れられたことである。マルサスは、人口がそれ自体自己制御的な社会システムであるということを認識した最初の社会科学者として位置づけられてよいだろう。しかし、このような見方がはっきりと概念化されたのは、第二次世帯大戦後になってからである…第2の発展は、マルサス・モデルの再定式化である。現在では、マルサス主義の経済人口学が2つの派に分かれているということが広く認められている。第1のものは、労働市場と結びついたメカニズムである予防的制限(preventive check)——第2版以降の『人口論』で修正された定式化において強調されるようになった——よりも生存手段依存メカニズムである積極的制限(positive check)に焦点を置く初版の『人口論』から直接派生している。積極的制限を用いたモデルは、非現実的なシナリオというわけではないものの、ケース・スタディの示すところによれば、その適用可能性はかつて考えられていたものと比べてはるかに限られている」58-9頁

「人口転換の古典理論は、前近代的状況と近代的状況の間に明確な境界が存在するという仮定に基づいており、それゆえ人口転換を近代化理論一般に結びつけた。初期の研究では、前近代社会においては出生と死亡のレベルがどちらも高く、自然出生力は地域的にも時代的にもほとんど差がないということが、当然のこととして仮定されていた。そして、こうした安定期から抜け出す主要因としての役割が工業化と近代化によって担われていたことが強調されたのである。
 ところが、ヨーロッパ出生力プロジェクトの総括篇は、子どもの供給が転換以前のそれぞれの社会の間で大きく異なっていたということを教えてくれる」62頁

「婚姻出生力の近接要因に関する分析および家族復元研究はいずれも、近代と前近代という2つの人口学的様式が意図的な出生制限の開始によって明確に区切ることができるという慣習的な知識に対して、疑問を投げかけているように思われるのである」64頁

「健康転換(もしくは疫学上の転換)に関して…
 マッキオン[Thomas McKeown]のテーゼに対して出されたその後の研究や批判は、長い間その人口の生活水準の指標とされてきた乳児死亡率が必ずしも産業化の過程で低下しなかったという事実に注目を促した。…乳児死亡率低下の遅れと開始の両方を説明する要因に関しては、近年では公衆衛生指標および都市化のマイナス効果が注目されている」65頁

「出生順位に基づく出生制限を行う近代と自然出生力の前近代、というような二分法では容易に分類できない行動上の特徴を持つさまざまな人口を扱うことのできる、いっそう洗練された手法を開発しなければならない。…婚姻出生力を3つの構成要素——妊孕(妊娠)可能出生力(fecund fertility: 不妊になる以前の女性)、開始期妊孕可能比率(entry fecundity ratio: 結婚時点で認識可能であった女性の割合)、継続妊孕可能比率(subsequent fecundity ratio: 1人以上の出産経験がありかつ妊娠可能である女性の割合)——に分解するというケンブリッジ・グループの斬新な方法は、家族復元を行う者の道具の1つとして位置づけられるようになるであろう。この方法は、とりわけ北西ヨーロッパのような人口、すなわち結婚が比較的遅くに起こり、第1次妊胎不能や第2次妊胎不能という従来の指標が必ずしも適切でない人口に適している」67頁

Coale, Ansley J. (1986) “The Decline of Fertility in Europe since the Eighteenth Century as a Chapter in Human Demographic History,” in Ansley J. Coale and Susan Cotts Watkins (eds.), The Decline of Fertility in Europe, Princeton University Press.
=小島 宏訳「18世紀以降の出生率低下」、83-120頁

「控えめな出生力の利点は生物学者には知られている。…進化論者は動物の対照的なカテゴリーにとって最適な2つの逆の戦略を仮定する。…2つの戦略はr戦略…とK戦略…として知られている…安定した生息地において、体が大きく、成熟が遅い生物にとって有利であるような、遺伝的に制御された生殖戦略は、遺伝的に制御されない人間社会の生殖戦略と相似である。いずれの場合においても、超高率の生殖よりもむしろ控えめな率の生殖の方が有利である。控えめな生殖は、体が大きな哺乳類や鳥類においては遺伝的にプログラムされたさまざまな出生力の規制によって達成されるが、人類においてはさまざまな社会的な習慣や慣行によって達成される」90-1頁

「アンリ[Louis Henry]は出生順位に基づく制限をコントロールされた出生力(controlled fertility)、出生順位に基づかない行動のみにより影響を受ける出生力を自然出生力(natural fertility)と呼ぶことを提案した」92-3頁

「ヨーロッパにおいてほぼ普遍的であった出生力低下は、(a)晩婚・生涯独身と出生順位に基づかない婚姻出生力の制限によって超高水準になることを妨げられた控えめな出生力から、(b)主として出生順位に基づく避妊・中絶の実行によってもたらされた低出生力への変化であった」94頁

「『人口と社会構造の歴史のためのケンブリッジ・グループ』による16世紀半ばから19世紀半ばまでのイングランド人口の再構成は、イングランド人口の増加率を抑制する上で有配偶率の変動がどれほど重要であったかを示している…再構成された教区簿冊に基づく証拠は婚姻出生力が実質的に一定だったことを示している。出生力変動の主要な要因、従って自然増加率変動の主要な要因は結婚年齢の変動と生涯未婚者割合の変動であった。ヨーロッパにおける近代的出生力低下に関するプリンストン大学の研究で用いられた出生力指標に関して言えば、1550年から1870年までの間におけるイングランドの出生力の大きな変動は、ほぼ全部がIm(有配偶率の指標)の変動によるものであり、Ig(婚姻出生力の指標)は実質的に不変であった」104頁

「リー(Richard Lee)によれば、クング族における出生間隔は一般的な食物採集慣習と関係するような、保育形態と関係している。
 『女性の仕事——すなわち野生植物性食物の採集——は、クング族の野営地で消費される食物の大半をもたらす。…
 …狩猟採集民族にとって長い出生間隔の利点は明らかである。母親は長期にわたってすべての注意を1人の子どもの育児に集中することができるし、母親が次の子どもの育児に着手する時に子どもが大きいほど、その子どもの生存の可能性が高まる。』(Lee, 1980)」106-7頁
↑ ”Lactation, Ovulation, Infanticide and Woma’s Work,” in Cohen, Nealpase and Klein (eds.), Biosocial Mechanisms of Population Regulation, Yale University Press.

「1930年から1960年の間に、1930年の安定人口増加率が負であった国々、実際は北西ヨーロッパのすべての国々においてTFRは上昇した。この上昇の主因は結婚年齢の大幅な低下——長期的に確立された晩婚と結婚忌避の西欧的パターンの部分的な放棄——であった。南欧と東欧ではTFRの上昇は1930年から1960年まで続き、その後の時期において点がはるかに密集することになった」114頁

「近年の出生力水準はおそらく、それぞれが希望する出生力をもとうと努力して全般的に成功を収めているような、個別の夫婦による行為の集計的な結果をかなり厳密に反映したものである。実際、1960年から1980年にかけての低下の一部は、望まない出生の忌避が着実に成功した結果である」118頁

新しいものを表示
ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。