「どんな種類にしても、ある種類の分子を考えるとき、すでに存在しているものと同じ姿に、他の分子が作り出されるということは、工学で ‘鋳型’ を用いるのによく似ている、とはよくいわれていることである。工学では、機械の機能を決定する単位を型(pattern)として、他の同種の単位を作り出す。鋳型のたとえは、静的なものであるが、遺伝子分子が他の分子を作り出すには、何らかのプロセスがあるにちがいない。わたしは仮説としていってみるのであるが、生物学的物質の同一性を決定する型(pattern)の要素は、ある周波数、分子スペクトルとかいうべきものの周波数であるかもしれない。そうすれば、遺伝子が自ら組織化すること(self-organization)は…周波数の自己調整の一つの現われということになろう」16頁
「ローゼンブリュート博士と私のまわりの科学者のグループは、通信と制御と統計力学を中心とする一連の問題が、それが機械であろうと、生体組織内のことであろうと、本質的に統一されうるものであることに気づいていた。他方、われわれはこれらの問題に関する文献に統一のないこと、共通の術語のないこと、またこの分野自身に対する名前一つないことに甚しく不自由を感じた。…科学者がよくするように、ギリシャ語から一つの新造語を造って、この欠を補わざるを得ないということになった。それでわれわれは制御と通信理論の全領域を機械のことでも動物のことでも、ひっくるめて ’サイバネティックス’(Cybernetics)という語でよぶことにしたのである」45頁
「厳密にニュートンの[可逆的な]図式に合うような科学は一つもない。生物学は完全に一方向きの現象を扱っている。誕生は死の正反対のものではなく、組織の発達を意味する同化作用は、組織の破壊を意味する異化作用の正反対のものではない。細胞の分裂も時間的に対称な様式では行なわれないし、受精卵をつくる生殖細胞の結合も同様である。個体は時間的に、一方向を向いた矢であり、種族も同様に過去から未来に向けられている。
古生物学の記録には、断絶したり錯雑したりはしているが、単純なものから複雑なものへとすすむ長期にわたる決定的な傾向が見られる。この傾向は、19世紀の中ごろには、誠実な偏見のない科学者には、誰にもはっきりわかってきていた。その機構を解明する問題が、ほとんど同じころ研究を続けていたチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォーレスの2人によって、同一の方向へ大きな進歩がもたらされたのはけっして偶然ではない。この進歩というのは次の事実の認識にある。すなわち個体にしても種族にしても、いくつかの変異ができれば、そのおのおのの間には生存力の強さに差があるので、種の個体の単なる偶然の変異は、大体一方向性、あるいは二、三方向性をもつ進化をするようになるということである」88-9頁
「17世紀と18世紀の初期が時計の時代であり、18世紀と19世紀が蒸気機関の時代であるとするならば、現代は通信と制御の時代である」93頁
「現代の自動機械は、生物体と同種のベルグソンの時間のなかにある。したがってベルグソンの考察のなかで、生物体の機能の本質的な様式が、この種の自動機械と同じではないとする理由はないのである。機械論でさえ、生気論の時間構造に符合するというところまで、生気論は勝利をおさめたのであるが、この勝利は…完全な敗北であった。道徳あるいは宗教に少しでも関係のある立場からみれば、この新しい力学は古い力学と同じく完全に機械論的てあるからである。われわれがこの新しい立場を物質論的と呼ぶべきかどうかはおよそ言葉の上での問題に過ぎない。物質の優位は現代以上に19世紀の物理学の一つの相を特徴づけており、”唯物論” は単に ”機械論” とほとんど変わりのない同義語になった。事実、機械論者-生気論者間の論争はすべて、問題の提出の仕方が拙かったために生じたものであって、すでに忘却の淵に葬り去られたのである」102頁
「[マクスウェルの]魔が働かなくなるまでにはかなり長い時間があり、この時間は相当ひきつづくので、この魔の活動期間を準安定(metastable)といってもよい。準安定状態にある魔が実際には存在しないと考えるべき理由はない。実際、酵素は準安定状態にあるマクスウェルの魔といってよく、これは速い粒子と遅い粒子とを区別するかわりに、おそらく何かこれに相当する操作によって、エントロピーを減少させるのだろう。生体とくに人間自身もこの考えで見ることができよう。酵素や生体は確かにどちらも準安定な状態にある。酵素の安定な状態とは効目のなくなることであり、また生体の安定な状態は死ぬことである。すべての触媒はしまいにはきかなくなってしまう。触媒は反応速度を変えるものであって、真の平衡状態を変えるものではない。しかし触媒も人間もどちらも、十分はっきりした準安定状態をもつので、これらは比較的恒久性のある状態と考えてよいほどである」128頁
「成員の間の結合が密接な小さな共同社会は、高度の教育をうけた人たちの文明社会であろうと、原始的な社会であろうと、相当な程度の恒常作用をもっているのである。原始的な共同生活をおくる人々の風習は、時に奇妙でわれわれに反感をさえ催させることもあるが、一般にひじょうにはっきりした恒常作用としての価値をもっており、それを解釈することは人類学の仕事に属している。無情なやりかたが最高の水準に達し得るのは大きな共同社会における場合だけである。…社会における、これらの恒常作用に反する諸因子のうちで、報道手段の統制がもっとも効果的で、また重要なものである。
本書で学んだことの一つは、どのような組織体でも、情報の獲得・使用・保持・伝達のための手段をもつことによって、恒常作用が営まれるということである」302-3頁
「精密科学におけるすべての偉大な成功は、現象が観察者からある程度以上に離れている分野で得られたのである。…
観察者と観察される現象との結合を最小にすることが最も困難になるのは社会科学においてである。観察者の側からいえば、社会科学における観察者は彼の注意をひく現象に大きな影響を与えることができる。…民族の社会的習慣の多くは、それについて調査をしたということだけのために、失われたり歪曲されたりしてしまうことがある。ふつうに言いならわされているのとは別の意味で、’翻訳者は叛逆者である’(tradutore traditore)。
他方、社会科学者は、その研究する問題を時間的にも場所的にも無関係な立場から冷静に見下ろせるかといえばそうではない。…
…結局、社会科学においては、調査が統計的なものであっても力学的なものであっても——調査はその両方の性質をもつべきものであるが——その結果の数字は最初の2,3桁しか信用できない。要するに自然科学でいつも得られるものと比較しうるほど確実で意味のある情報は得られないのである」306-9頁
意外と「社会工学」に批判的
「生物組織を特徴づけるとわれわれが考えている現象に、つぎの2つのものがある。学習する能力と、増殖する能力である。この2つは、一見異なっているようだが、互に関連している。学習する動物というのは、過去の環境によって、今までとは異なる存在に変化することができ、したがって、その一生のあいだに、環境に適応できる動物のことである。増殖する動物というのは、少なくとも近似的には、自分と同じような別の動物を作り出すことのできる動物のことである。’同じような’ といっても完全に同じで、時間がたっても変らないというわけではないだろうから、もしこのときに生ずる変化が遺伝するものならば、その素材に自然淘汰がはたらき得ることになる。遺伝によって行動のしかたが伝えられるものならば、それらのいろいろな行動の形態のあるものは、種の生存のために有利であることが見出されて、固定され、種の生存に不都合な他の行動形態は排除される。こうして、ある種の、種族的(racial)、または系統発生的(phylogenetic)な学習が生じる。この反対が、個体の個体発生的(ontogenetic)な学習である。種族的、個体的学習はともに、動物が自分自身を環境に適応させていく手段である」314頁
「ギリシャや魔術時代の自動機械は、現代の機械発達の主方向に沿っていないし、重要な哲学思想に大きな影響を及ぼしたとも思えない。時計じかけの自動機械では全く事情がちがっている。われわれは無視しがちであるが、この考えは近代哲学においてひじょうに本質的で重要な役割を果したのである。
まず、デカルト(Descartes)は下等動物を自動機械と考えた。…デカルトは、これらの生きた自動機械の機能がどんなものであるかについて論じたことはなかった。しかし感覚と意志との両面において、人間の魂が、その物質的環境とどう結びつくかというそれに関連した重要な問題を、デカルトは不十分な形ではあったが論じている。彼はこの関連が、彼にはわかっていた脳の中央部分、いわゆる松果腺において起ると考えた」95-6頁