「不完全な決定論、すなわち非合理性に近いものが世界に含まれることを承認することは、ある意味では、フロイトが人間の行動と思考に深い非合理性が含まれることを認めたことと並行している。今日のような政治的および知的に混乱した世界では、ギッブズとフロイトと近代的確率論の唱道者たちとを一まとめにして同一の思潮の代表者たちとみなすことが自然な傾向である。私はこの点を強調したくない。ギッブズ=ルベーグの思考方法と、フロイトの直観的だがやや放漫な思考方法との間のちがいは大きすぎる。とはいえ、確率を宇宙そのものの構成の基本要素として認めた点では、これらの人物は相互に似ており、かつ聖アウグスティヌスの伝統に似ている。なぜなら、このような偶然的要素、有機的不完全性は、われわれがあまり無理なしに悪とみなせるものであり、それはマニ教徒が言う積極的な悪意をもつ悪よりは、聖アウグスティヌスが不完全さと考えた消極的な悪である」6頁
「本書の主題は、次のこと、すなわち、社会というものはそれがもつ通報および通信機関の研究を通じてはじめて理解できるものであることと、これらの通報および通信機関が将来発達するにつれて、人から機械へ、機械から人へ、および機械と機械との間の通報がますます大きな役割を演ずるにちがいないことを示すことにある。
人が機械に命令を与える場合の状況は、人が他人に命令を与える場合に生ずる状況と本質的にちがわない。…人間にも動物にも機械にも通用する工学的制御の理論が、通報の理論の一要素をなすのである。…
…制御と通信においては、われわれはつねに、組織性を低下させ意味を破壊する自然界の傾向と闘っているのであり、この傾向は、ギッブズが示してくれたように、エントロピーの増大ということである」10-1頁
「情報とは、われわれが外界に対して自己を調節し、かつその調節行動によって外界に影響を及ぼしてゆくさいに、外界との間で交換されるものの内容を指す言葉である。情報を受け取り利用してゆくことによってこそ、われわれの環境の予知しえぬ変転に対して自己を調節してゆき、そういう環境のなかで効果的に生きてゆくのである。近代生活のいろいろな要求と複雑さは、このような情報交換操作を従来のどんな時代よりも大いに必要とした。…効果的に生きてゆくということは、適切な情報をもって生きてゆくということである。こうして、通信と制御とは、人間の社会生活の要素であるばかりでなく、人間の内的生活の本質的な要素をもなすものである」11頁
「動物と機械のどちらにおいても、単にそれらが<しようとした>動作ではなく外界に対し<実際に遂行された>動作が中央制御装置に報告されてくる。行動のこのような複合は、普通は人々は気づかないし、とくに従来のありふれた社会分析においては、それが当然演ずるべき役割を果たしていない。しかし、個体の物理的反応をこのような観点からみることができるのと同様に、社会そのものの有機的反応もこのようにみることができるのである。私は、社会学者たちが社会におけるこのようなコミュニケーションの存在と複合性に気づいていないと言っているのではないが、最近まで彼らは、そのようなコミュニケーションが社会という構成体を結びつけるセメントとしていかに重要であるかを見逃してきた傾向があった」22頁
「意味論的にみれば、生命、目的、心などという言葉は精密な科学的思考にとってひどく不適当である。…私の見解では、『生命』とか『心』とか『生気』とかのような厄介な言葉を一切避けて、機械はエントロピー増大の大きな流れの中でエントロピーの減少するポケットのようなものだという点で人間と似ていると十分みなせるということだけ言うのが最善である。
私は、生物をそのような機械と比較するさい、さしあたりは、ふつう生命と呼ばれているものの物理的、化学的、および精神的な過程が生命模倣機械のそれと同じであると言おうとするのではなく、単に両者がともに局所的な反エントロピー過程であると言うのであり、そういう過程はおそらく、生物的とも機械的とも呼べない他の多くの仕方でも存在するであろう」29-30頁
「マルサスからダーウィンへの知性のつながりは明白である。進化の理論におけるダーウィンの大革新は、彼が生物の進化を、ラマルクのように生物が自発的にますます高等でますます適応的なものへ進化してゆくことではなく、次の2つの傾向をもつことによって生ずる現象だと考えた点にある。(a) 多数の方向へ発展してゆく自発的な傾向、(b) 祖先の型を継承する傾向。この2つの傾向が組み合わさって、自然の余りに多様な発展を刈り込み、環境に不適応な生物を『自然淘汰』という過程によって自然から除去してきたのである。この刈り込みの結果、環境に多かれ少なかれ適応したさまざまな形の生物からなる一組のパターンが残留することになったのであり、こうして残留してゆく生物のパターンは、ダーウィンによれば、宇宙全体の合目的性の現われのような形をとるのである」35頁
「<サイバネティックスの立場からみれば、機械の構造も生物の構造も、その機械または生物から期待しうる性能を示す指標である>。昆虫の構造の固定性はその知能を制約するほど強力なものだが、人体の構造の柔軟性は人間の知能のほとんど無限の拡張を可能にするものであるという事実は、本書の見地にとってきわめて重要である」57頁
「人間の通信を他の大部分の動物の通信と区別する特徴は、(a) 使われる符号体系の精巧さと複雑さ、(b) この符号体系の高度の任意性である。多くの動物は自分たちの情緒を相互に信号で伝えることができ、そのさいのそれらの情緒は敵の存在とか、同じ種の異性の個体の存在とか、こういう種類のきわめてさまざまな詳しい情報を表示する。これらの通報の大部分はその時かぎりのもので貯蔵されない。そのかなりの部分は人間の言語に翻訳すれば間投詞や感嘆詞になるものだろう。ただし、一部は名詞と形容詞のような形の語として大まかに表現できるかもしれないが、それらの語を当の動物は人間の言語の場合のような文法的な形の区別なしに使うのである。一般に、動物の言語は第1には情緒を、第2に事物を伝え、事物の間のもっと複雑な関係は全く伝えないように思われる。
伝えられるものの特性がこのように限られているほかに、動物の言語は種によってごく一般的な仕方で固定されており、歴史的に変化しない」75-6頁
「私は、言語は人間のみがもつ特質ではなくて、人間が創り出した機械もまた或る程度までもつことができるものであることを示したい。私はさらに、人間が言語を占有しているのは、人間の体内に作りつけられた一つの可能性によるのであって、この可能性は人間の最も近い親類である類人猿の体内には作りつけられていないものであることを示したい。ただし、人間におけるこの可能性は学習によって有効化されなければならないものとしてのみ人間に賦与されているものであることを示そう。
ふつう、通信や言語というものは、人から人に向けられるものだと考えられている。しかし、人間が機械に話したり、機械が人間に話したり、機械が機械に話すことも全く可能である」77頁
「言語の進化論は、生物学における洗練されたダーウィンの進化論よりも前からあった。その進化論は妥当なものではあったが、たちまちそれが、生物進化論が適用できなかったところで勢力を振いはじめた。それによれば、各言語は独立した準生物学的存在であって、その進化は全く内部的な力と要求とによって起こされるものであるとされた。実は、言語は人々の交わりの付随現象であって、その交わりのパターンの変化による社会的な力のすべてに左右されるのである。」
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「人類は幼形成熟型である。…人間の社会が学習に基づいたものであることは、アリの社会が遺伝的パターンに基づいたものであるのと同様に全く自然なことなのである」57-8頁