Wiener, Norbert. (1956) I Am a Mathematician, Doubleday & Company.
=1956 鎭目恭夫訳『サイバネティックスはいかにして生まれたか』みすず書房
「数学は概して青年の仕事である。それは若さと体力がある時にのみ完全に満しうる資格を要求する知的競技である。若い数学者のうちには才能のひらめきを示しながら1、2の有望な論文を発表した後、昨日のスポーツの英雄を取巻く忘却の淵と全く同じ境涯へおち込んでしまうものが多い。
だが彗星の如く現われ活動の芽をふき出した途端、倦怠の生涯におち込んでしまうのを見るのは耐えられぬことである。数学者が線香花火のようでない一生を送るためには、彼は、最高の創造的能力に恵まれた短い春の季節を、生涯を投じても消化し切れない位の豊富さと魅力を備えた新しい分野と新しい問題の発見に献げるべきである。若い私を刺戟し、それを創始するため相当な努力を献げた問題が、60台になった今なお、私に最大の要求を加えて来る力を失っていないように思われるのは、私にとって幸いである」23頁
「交流の歴史の初期において、交流の発明を握っていたウェスチングハウス系の人々と、既に直流工学に多大の資金を投じていたゼネラル・エレクトリック系及びエディソン系の人々との間に王位争奪戦が行われた。この論争の一つの落し子としてニューヨーク州では交流を用いて犯罪者の死刑執行をすることとなった。これは、人々に交流の方がより危険だという誤った観念を抱かせて家庭で交流を使うのを厭がらせるため、立法者を通じて行われた取引の結果なのである。しかしながら間もなく電気工学における両派の争いはしずまった。というのはゼネラル・エレクトリックの方でもウェスチングハウス社と同様、交流が使えるようになったからである」45頁
「苦痛が数学的緊張となって現われたのか、数学的緊張が苦痛によって象徴されたのか、どちらとも言い切ることはできない。なぜなら両者は不可分の一体をなしていたからである。しかしながら後になってこのことを考えてみると、殆ど如何なる経験でも、まだばく然として脈絡のついていない未解決な数学的事態の仮の象徴の役割りを演じうることが分ってきた。私は、私を数学に駆りたてる主要な動機は、未解決な数学的不調和が与える不満や苦痛であることをこれまで以上にはっきりと知った。このような不調和感を解きほぐして半持続的な認識できる脈絡に還元してしまわないと、苦痛を脱して他の問題に移ってゆくことができないことを、私は益々意識するようになった。
実際、有能な数学者を特色付ける他の何よりもまして適切な特徴があるとすれば、それは束の間の情緒的象徴を操ってこれから半持続的で思い出すことのできる言語を構成する能力であると思う。もしこうすることができなければ、彼の着想は、形式を与えられないままの形で保存するという極度の困難に耐えられずに蒸発してしまうであろう」53頁
「前成説は、物質の無限可分性に賛成するものであり、これから出てくる哲学的帰結は、特に大哲学者ライプニツによって熱心に研究された。
ライプニツは…水の滴や同じく生命のみちあふれた血の滴から類推して世界を充実空間——真空は存在しない——と考えていた。すなわち彼は生物の間や生物の内部にある空間すべてが、より小さい大きさの生物で充されていると考えた。この考えから、更にライプニツは生命の無限不可分性、従って物質の連続性を仮定したのである。
ライプニツは、いうまでもなく彼の時代の微視的観察と彼自身の哲学の内的な働らきとの両方によって生みだされたこの見解に導かれて、数学の新しい解釈に到達した。われわれが忘れてはならないことは、彼が微積分法の発明者の一人であり、今なおわれわれが使っている記号は彼が創めたものであるということである。彼によれば、時間と空間が無限に分割可能であるみのならず、時間と空間に分布している量は、時間と空間のあらゆる次元にわたって変化率を持っている。…ライプニツは、物理的世界の連続性を主張することによって、原子論に正面から反対する見解の代弁者となった」62-4頁
「ボーア兄弟にはしばしば会った。たしかニールス氏の部屋だったと思うが、この兄弟の一方の部屋に2人の子供時代の肖像があったのを憶えている。その顔にはどこか農民に似た面影があった。この農民の面影は成長するにつれて消えてしまったものらしい。その時のお客の一人にコペンハーゲン大学の古典文学の教授でたえず大きな黒い葉巻をふかしている婦人がいて、この兄弟の子供時代には、こんな出来の良くない2人の子供を持ったお母さんに友人が同情したものだという話を聞かせてくれた。ニールス・ボーア氏が科学上の業績によってデンマークの国民的英雄となり、コペンハーゲンの大醸造会社から寄付された宮殿のような家に住んでいることや、ハラルド・ボーア氏がデンマークの生んだ最大の数学者であったことを思うと、これは今でははなはだこっけいな話としか思えない」78頁
「ある日私は『ザ・ストランド』の中で『黄金づくり』とよばれる第一級のスリラー小説を読んだ。それは非常にもっともな科学と経済学を含めた科学小説であり、陰謀、追跡、逃亡などのはいったすぐれた筋をもっていた。ケンブリッジのトリニティ・カレッジのJ. B. S. ホールデーン教授が書いたものだった。その表紙に背の高い、体格のたくましいおでこの男の写真がのっていたが、その男は私が[ケンブリッジの]哲学図書館でしばしば見ていた男だった。
私が図書館で次にホールデーンにあったとき、私は思いきって彼に話しかけ、自分を紹介し、彼の小説が立派であると述べた。しかし彼の小説にはほんのちょっとした欠点があったのでそれを指摘した。彼はアイスランド人と思われる人物にデンマーク人の名前をつかっていたのだった。
ホールデーンは私のこのぶしつけな示唆を喜んでくれ、数週間後にオールド・チェスタートンの美しい自宅にわれわれを招いてくれた」105頁
「私たちがとても元気になって旅から帰ってきたとき、マーガレット[妻]は私をホールデーンの家へ連れて行った。私は彼らとブリッジ遊びをしたことを思い出す——家族対家族、男性対女性、あるいはユダヤ人対キリスト教徒という組合せで。われわれはまた非常によくしゃべり合う機会を得た。そして私はJ. B. S. ホールデーンほど会話に長じた人やいろいろな知識をもった人に会ったことはない。
…われわれはホールデーン一家にはしょっちゅう会いに行き、そして私は彼の家の芝生のそばを流れるカム川の支流へ彼と泳ぎに行くのが常だった。ホールデーンはパイプをくわえたまま泳いだものだ。彼にならって私は葉巻を吸い、いつもの習慣通り眼鏡をかけたまま泳いだ。川にボートを浮べている人たちから見ればわれわれは水の中を浮いたり沈んだりしている大きな水棲動物、いってみれば長いセイウチと短いセイウチのように見えたに違いない」106-7頁
「彼[レイモンド・ペイリー]は数学を一種のゲームとして自由自在に操つるすばらしいうでと、ほとんどどんな問題でも攻撃することのできる一大装備にまで積み上げられた実に多くのあの手この手を私にもたらしたが、数学を他の諸科学の中に正しく位置づけるという感覚はほとんど全くもたなかった。われわれが着手した多くの問題のなかに、これは私のくせなのだが、私は物理学的応用ばかりか工学的応用すら見出した。そして私のこのような感覚は、私が作る像と問題を解くために使う道具とをしばしば決定した。私が彼のやり方を学びたがっていたのと同様、ペイリーは私のやり方をしきりに学びたがっていた。しかし私の応用的観点がかれには容易にピンとこなかったし、彼がそれを十分スポーツマンにふさわしいものとみなしたとも思われない。私は数学というスポーツ(狩り)で、もし獲物を猟犬を使って追いつめることができないなら鉄砲で射ってしまうことによって、彼や私の他のイギリスの友達をビックリさせたに違いなのだ[ママ]。…
ペイリーと私のちがいは、偉大でありながらも伝統的なイギリスの古典学者と私の父とのちがいと本質的には同じであった。…私はイギリスの学者気質を尊敬し理解はするが、私の本質は大陸的である」111頁
「数日間暑い8月の天候の中で、私は東大の人たちに会い、2、3回話をした。大学の学問的水準は確かに高かったが、同時にそのころの東大は一国の最高の大学であるという確信を持つ大学が染まりやすいあのかたくなさに毒され始めていた。東大の教授たちは、よりおとった大学の同僚たちをいさゝか見下していた。
池原[止戈夫]氏は大阪までわれわれに同行した。大阪は東京よりもさらにむし暑いところだった。大阪大学の数学グループは非常に私の好みにあった。日本の最高の数学者の多く、例えば世界のどこへ出してもひけをとらない吉田[耕作]、角谷[静夫]らはこのグループから出たのだ。
われわれは大阪城を訪れた。この巨大な建物以上に頑丈さと難攻不落さを思わせる建築物はヨーロッパにはない。後方に傾斜したどっしりした石の城壁は今でも一軍を支えることができよう。この城はブシ(武士)やローニン(浪人)の昔の日本のことを石によって物語っているように思われた」122-3頁
「中国の友人たちの中には近代的な意味に於ける科学的懐疑主義者たちがいた。キリスト教徒は何人かいたが、道教や仏教の信者といえるような人はほとんど一人もいなかった。しかしほとんどすべての人に共通していたことは、何か特殊な人にではなく世界全体に対する愛情をもっているということだった。これは全く仏教徒に特徴的なことである。これに劣らず中国の特徴を示すものは、道教の教えのかなり風変りな無形の体系に附随した、軽やかな快楽主義的なものの考え方である。 私の知り合いになったすべての立派な中国人は孔子の伝統をうけついでいた。そしてキリスト教徒となっても相変らず孔子の徒であった。というのは中国人は諸説融合という宗教的伝統をもっており、彼らにとっては一つの宗教を受けいれることは他の宗教をこばむことを意味しないのだ。宗教的伝統を何によらず尊重するすべての中国人の脊後には、紳士兼学者兼政治家という孔子的概念、つまりユーモア感でやわらげられ、社会の福祉を目標とし、尊厳な学問を手段としている、いわば厳粛簡素で礼節正しい人物という概念がひそんでいる」131頁→
「共同研究というこの習慣はほとんど数学者と数理物理学者だけにしかない財産である。他の分野の大概の学者は単に実験室に依存しているためにだけでなく、それぞれ独自の材料と装置をもった非常に特殊な研究所に依存しているということのために、共同研究ができない。歴史や言語学の学者となると、あまりにも異論の多い分野で仕事をしているので、共同の論文などというものは、異常な偶然によってたまたま同じ一般的見解のみならず細かい点にわたってまで同一の意見を共有している場合でない限り、ほとんど不可能である[😅]。文学や音楽のような芸術では、一群の芸術家が真に創造的な作品をつくるに欠くべからざる個人的な観点の一致に到達することを可能にするような十分な共通の基盤が存在しない。しかしながら数学は、その学問の美的な面を特徴づけている観点に個人的個性というものが実在するにもかゝわらず、意見の相違を非個人的なものに基づいて判定し解消させて共同研究を可能にするには足りるほどの事実的な学問である」134頁
「船の中では…私はチェスも少しやった。この旅で私はわれわれのチェスと違った日本のチェスの明らかな名手であった日本武官の一人にヨーロッパ式チェスを教えた。日本将棋では駒はくさびの形をしており、色でなくその向きが駒の所属を示す。日本将棋では分捕った駒を使用してもいゝということは注目に価する——この事実は朝鮮戦争を考える場合に重要性なきにしもあらずという気がする。さもなければ朝鮮側の捕虜になった者がまだ生き駒として敵方に役立つことや、わが方の捕虜になったものがひっくり返って敵方に不利な駒になることなどは解釈がつかない。とにかく私のこの日本人の友人は2、3回で西洋将棋をものにしたうえ私を絶対確実に打負かすまで上達した」136頁
「ホールデーンも私もスペインにおける自由が新たに打撃を受けたことを悲しみ気が滅入っていた。後にホールデーンはスペイン共和国側に奉仕を志願しスペインで戦うために英国をたった。スペインで彼は反フランコ諸政党の大部分の善意に伴う[?]話にならぬ非能率に驚いた。そして彼はますます共産党にかたむき始めた。彼にいわせると共産党は少くともある意図とある政策をもっていた。
イギリスの共産党はやがて彼を自分たちの最大の宝の一つと認めた。彼は、ルイセンコの教理的な生物学とチェコスロヴァキヤの裁判とによって共産主義とたもとを分つまで、ずっとデーリー・ワーカー紙の編集者のイスについていた。
しかしながらこの共産主義との政治的和解はまだのちのことだった」138頁
「数学の物理的な局面に対する私の絶えず高まっていた興味がはっきりした形を取りはじめたのもM.I.Tにおいてだった。校舎はチャールズ河を見下し、いつに変らぬ美しいスカイラインが眺められる。河水の面はいつ眺めても楽しかった。数学者兼物理学者としての私には、それはまた別の意味を持っていた。絶えず移動するさざ波のかたまりを研究して、これを数学的に整理することはできないものだろうか。そもそも数学の最高の使命は無秩序の中に秩序を発見することではないのか。…こうして私は、自分が求めている数学の道具は自然を記述するのに適した道具であることを悟り、私は自然そのものの中で自己の数学研究の言葉と問題を探さねばならないのだということを知るようになった」16頁