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「アリストテレスと同様、ハーヴェイもまた、素朴な生気論者であった。彼は、経験を通して自然について彼が見つけたものを言語化しようと努力した。明らかにこの経験は彼の説に、特別な生気論的自律性をもたらした。
…ハーヴェイの理論的成果はあまり影響力をもたなかったが、その後ほぼ1世紀にわたって生気論的課題の権威と見なされ、その後継者の見解と比べると、より基本的で注意深い主張であった」20頁

「シュタールの立場は『アニミスト(物活論者)』であり、生気論者ではない。しかしこの違いは、シュタールの影響が強いモンペリエ学派の中ではたちまち消えてしまう。この学派は生気論にはっきり立っているからである」28頁

「後成説の信奉者は全員が生気論者であり、すべての論争が重要である」30頁

「[ビュフォンの]『内の鋳型』の結果に由来する力は、生長を促進し、生殖器官の中に特別な秩序を集約させる物質の過剰分のすべてを、この力に適合させるような影響下に置く。ここにダーウィンのパンゲネシス説との並行関係がある。…ここでは、生殖細胞の起源について真の生気論的な説明がなされている。…ビュフォンが、発生について展開説[evolution]に立つにもかかわらず、生殖細胞の形成については特別な生命力(vital forces)の効果を認めている」32頁

「ビュフォンの業績を批判的にまとめるとすれば、生気論自体としての意味ではなく、彼の方法論の生気論的正当化についての評価に、尽きるのではないかと思う。ビュフォンは、生気論を論証しようとは思わなかったが、彼は科学的正当性を示そうと努力したことで、素朴な視点から洞察力をきかせた理論を展開することになった。ビュフォンはシュタールより偉大だ、という時(ただし後者の分析はビュフォンをはるかに凌駕しているが)、それは彼がつぎのことをはっきりと認識していた事実に起因する。つまり、機械論に比べて何かしら新しいことを言明しており、自分にはそれを言う権利があるのだ、ということを」33-4頁

「[カスパー・フリートリヒ]ヴォルフは、静的もしくは構成論的な目的論を明確に拒否し、動的目的論すなわち生気論を採用するに至る」38頁

「[シャルル]ボネが言うような、『魂という言葉を著作の中で頻繁に用いる研究者は、生気論者と呼ぶべきだ』という主張には私は異議を唱える。一般的な答えとして、最近までそうであったが、魂(アリストテレスのvous[ママ、おそらくνους]に対応した)をその指標だと、多くの人間は考えてきた。ただしそれは、自然に属さない何ものかについての知識と理論がまだ混乱していた時代の話である。魂は、自然の部分には属さない、自然にあい対立するものである。ただし、双方とも絶対的現実性をもつものとして把握される」44頁

「古典的生気論は、J. F. ブルーメンバハ(1752〜1840年)をもって、その最高峰に登りつめる。
…少なくとも生気論の真の証拠とみなしうる地点へ彼は到達し、アリストテレスの地点からさらに本質的な一歩を踏み出しえたのである」49頁

「ビシャは、夭折したが、生気論者であった。ただし彼は生気論を論証することには失敗し、しかもそれは、形態形成の事実に立脚したものではなかった。彼は、『生命所有(propriétés vitals)』を、重力や弾性などと同じ水準のものと主張した」52頁

「生気論の真の証拠としては、生体の形成は、その部分が相互に影響し合う極小の構造を基礎する論理では不可能、という事例をあげなくてはだめである。しかし、ブルーメンバハがあげる証拠は、この時代に考えられる類似の例でしかなかった」54頁

「『根源的合目的性(primary purposiveness)』の概念は、ブルーメンバハとヴォルフが前成説に反対し、生気論に同意する論拠なのだが、この言い方がヴォルフの場合のいちばん明確な表現である。
 これに比べて、ブルーメンバハによる形成衝動についての作用様式の説明は、本質的に不明確で暫定的な性質のものであり、重要ではない」55-6頁

「[『判断力批判』の]カントが拒否したのは、以下のことである。第1に、有機体は作られた機械であること、第2に、それは特殊な物質から導き出されること、第3に、それが特殊な生気論的法則に従っていること、である。だが私が見るところ、カントは有機体をこの種の特殊な法則に帰属させていた。この3つの否認から(またこれを、構成論的世界に関するカントの結論と調和させることで)、彼が、有機体を一定の機械に格下げし、かつその起源は研究できない課題であると考えた、と推論できることになる。ここでカントは、人間を例外扱いしていることを除いては、『静的目的論者(static teleologist)』である」67頁

「カントは、自身が作りあげた偽りの課題で自説の論理的困難を拡大してしまった生気論者、と言うことができる」72頁

「カントは後成説を受け容れ、発生の生産能力について語り、生気論者ブルーメンバハに明確に同意する。その上で、間違ったかたちでブルーメンバハを引用する。はっきり、静的目的論の意味で『始原的有機体』を用いるのだが、この言葉は以後二度と使われない」74頁

「生物学の基本問題に対するカントの態度…全体をまとめると、彼の主張は以下のことを支持しているようにみえる。
 第1に、純記述的で、もっぱら規制的判断をする目的論。それは、正当な基盤を挙げることなく、それ以上の究極目的を求める原理に立つことを遮断するものである。
 第2に、生気論。ただしこれはカントが、すべての自然現象は先行する運動現象に究極的に還元できる、とするドグマに彼がとらわれており、同時にこの仮定が生命体に関するかぎり支持できないからである、と思える。
 第3に、静的目的論、もしくは力学的に生じるすべての基礎の上にある一定の構造の理論である。この見解はカントの表現の意味合いにより、第2の立場に近いものを意味しているのは事実である。例外は、ここでも生気論的な意味で、その活動的存在ゆえに、人間が挙げられている」74頁

「『判断力批判』における生物学的内容についてのわれわれの最終評価は、以下のようになる。人間とその行動に関して、カントは明らかに生気論者であったが、有機体に関して彼は、なお問題含みであった。彼は、静的および動的目的論の論理的な違いについて、常に意識していたわけではないし、自然科学のあるべき形についての彼の理想と、自身の生気論とは非常に矛盾したものであり、カントはこれに満足してはいなかった。その理想は誤った厳格な機械論であり、そこでは(まったく不思議なことに、われわれは歴史的観点からそう読みうるのに)魂のための活動空間はあるのに、魂に似た自然の作用因については存在していなかった」75-6頁

「有機体生成の教理とその法則について、シェリングは何も明確には述べなかった。むしろ彼は、生気論と目的論的機械論の間で、常に逡巡していたが、後に後者に傾いた。ヘーゲルもまた、客観的な要素的力に対抗して、連続する光として生命を記述するとき、生気論の特徴を帯びるのだが、完全なものではない」83頁

「本書においては、キュビエは名前を挙げるにとどめる。生理学の基本的問題で、彼は生気論的ではあるが、独自の論をもってはない。この点は、彼の別な領域での著作を検討すれば、明確になる。彼自身は、ビシャの理論に同意すると宣言している。
 よく知られているように、ゲーテの自然哲学に対する考え方に関して、とくにキュビエは『型』の概念を論じ、『エンテレキー』という言葉もよく使用するのだが、生気論の歴史からすると、明確な進歩が認められないから、名前を挙げるだけとする」84頁

「[ローレンツ]オーケンの奇妙な理論は本質的に、有機体の形態は他に還元できないとする、生気論の基本的真理に立脚している事実が読み取れる」86頁

「[J. C.]ライルは、生きる物質という観念に立脚した生気論的理論の、最初の主張者であり、そう明確に考えた人間であったが、理想(idea)から物質へどう移行するのかという問題の重要性に比べると、その理論はあまりに単純すぎた。彼は単に、理想をもつ物質の存在を認めただけであった」89頁

「トレビラヌスをもって、『スコラ的生気論』の創始と呼んでもよい。彼の主張の大部分は、先行者と大して変わりはないのだが、生理学的理論一般に生気論的システムを導入する学派がここから始まる、と言うことができる。それはこの学派の最後をかざる、ヨハネス・ミュラーまで続く」89頁

「トレビラヌスが初めて、生物学という言葉を、生き物についての理論全体を意味するものとして用いたことは、注目に値する。『われわれの研究の対象は、生命として違いを示す形態と現象、その事態が起こる条件と諸法則、それを生み出す原因についてである。これらの事柄に関わる科学を、生物学もしくは生命の理論と命名することにしよう』」90頁

どっちなんすかね…😅
twitter.com/9w9w9w92/status/13

「すべての物質は組織化されて、常に変化している。しかし、その組織化と変化において、変化の原因となる外部の影響が変化しないかぎり、永続する何かがある、という説である。生体の物質もその例外ではない。たとえば不可侵入性がそれである。トレビラヌスに言わせると、生体組織を構成している生体物質が例外であるのは、単に表面的なものであるにすぎない。宇宙の渦巻きから生じる自然を救うためには、宇宙の波動を打破するダムのようなものが在るはずである。これを媒介する力は、物質の可能性にとって必要な第一義の力ではない。『それゆえわれわれは、第一義的な力からこれを区別して、生命力(vis vitalis)と呼ぶ』」91頁

「彼[トレビラヌス]の場合、『合目的性』それ自体が、人工産物と比べて、生命を特徴づけるものである。本能的なるもの、無意識なるものが、彼の生気論的な理論全体の基礎になっている事実は、重要である。…『生きる存在と、魂を吹き込まれた存在(Beseeltsein)は、同じものである』」94頁

「彼[M. F. オウテンリース]によると、生命には、物質とは本質的に異なる何ものかが存在する。その『生命力』は、身体からは独立したものである」95-6頁

「彼[ティーデマン]の論は、細い部分ではつぎのような結論に達した。活性化されていない身体の存在は、化学的な構成要素において生じる休止の状態に依存し、有機体の存在と維持は構成物の持続的な変化によって条件づけられている、というものである。これは『動的平衡(dynamic equilibrium)』という現代的概念を連想させる」😅 97-8頁

「K. F. バルダハ…
 生命原理(life-principle)は、『機械仕掛けの神(deus ex machina)』ではなく、『生命仕様の神(deus ex vita)』を意味する。いかなる機械論的、化学的理論をもってしても、有機的な形成を説明するのは不充分である。しかし、生命原理は、物質を離れては構想することはできない。それは『物質的手段を介して』、分泌や同化などの有機体共通の活動を介して作用する。『その活性が生命の本質だとしても、物質は単なる偶然にすぎない』」98頁

「ショペンハウエルは、バルダハを、好意的にしかも頻繁に引用した。もちろん、彼が評価したのは、形而上学的な原子、『自然の意志(Will in Nature)であった。われわれは、ショペンハウエルは、自身が信じていたほどには、自然哲学としては大して違わない位置にあったことを、心にとどめておくべきである」100頁

ヨハネス・ミュラー「魂と生命との関係は、一般的な自然におけるすべての物理的な力と、その中で展開する物質との関係に対比できる。たとえば、光や、そこに出現する身体。双方とも謎は同じである」106-7頁

リービヒ「無機的な自然の力に関する知識が不充分であるために、有機物における特殊な力の存在はしばしば否認されてきた。この特殊な力は、無機的力の本性に抗し、その法則に矛盾する行動様式をもつ無機的な力に帰されてきた。その存在をあえて否定する人は、あらゆる化学的な結合は1つではなく、3つの原因、つまり熱と親和性に加え、凝集と結晶化における『形成力(formation forces)』が前提とされている事実に対して無知である」
「生体の中には、凝集力の優位にたち、元素を新しい形態へと結合させる第4の原因がさらにつけ加わる。それは、新しい質——生体の中を除いては出現しない形態と質を、獲得するためのものである」108頁

「彼[ショーペンハウアー]は、生物学を生気論的な意味で、還元のできない特別な法則をもつ独立の科学と見なしたが、同時に彼にとって生命は、一連の事象の最終項であり、他の自然との対比は何も行なわれてはいない」111頁

クロード・ベルナール「われわれは生気論者とは一線を画そう。なぜなら生命の力は、それにどんな名称を与えるにせよ、みずからは何もなすことができないからである。それが作用するには、自然の一般的な諸力の助けを借りてこなければならず、それら諸力を伴わずにみずからを発現させることはできないのである。——われわれはまた、唯物論者とも一線を画そう。生命の発現は、物理化学的諸条件の直接的な影響下にあるとはいえ、それらの条件が整ったからといって、生物に特別にあてがわれる秩序や継起へと、そうした現象をまとめ、調和させることはできないからだ」122-3頁

「ベルナールは、『生命の計画』を認めるが、『生命原理による介入』は認めない。後者の『生命力』は最大限、『規制する力』としては認めるが、『執行する力』としては認めない。これは静的目的論のように聞こえる。
 だがその後、こう言っている。『生命力とは、みずからが産出するのではない現象をも支配する。物理的要因は、みずからが支配するのでない現象をも産出する』。これは生気論的な主張に受けとれる」123-4頁

エミール・デュボア・レイモン「生気論的意味での生命力は存在しない。なぜならそれによるとされる作用も、物質粒子がもつ中心的な諸力から引き出されるものとして分析されうるからである。この種の力は存在しない。これら諸力は独立に存在するのではなく、それを任意に分配したり、物質から取り除くことはできないのである」133頁

「[デュボアやヘルムホルツは]生気論はエネルギー保存則と明確に矛盾する、と述べている。
…[ヘルムホルツ]『生命体が、それに見合ったエネルギーの消費なしに何らか量の仕事を行ないうる事実を、いささかも発見することはできない』」134頁

「真の生気論、少なくとも生命の形態について目的論的な考え方に言及している思索家以外で、注目してよい人間としては、晩年の[フォン]ベアがいる。彼は、1860年代〜70年代に、講演や講義の中で繰り返しその見解を説いた。
 古典的生気論の中でのベアが果たした役割は二次的である。…目的論的な説明を採用する中で、ベアはダーウィン主義への反対陣営に加わった。
 …彼の主張内容を、はっきりした考え方として切り出すのは、実に難しい。彼は、生命過程を有機的な構成の結果とは見なさず、『有機体それ自身が構成し変換するリズムとメロディー』と言っているのである。生命過程を『自身の体を自ら作り上げる創造的思考』と定義したり、型と特殊性との連関を彼は『調和とメロディー』だとするのだが、これなどは単なる比喩でしかない。
 ベアは、刺激を『なにか初源的なもの』以上には明らかにしなかった。それは身体の構成から生まれるのではなく、『生命過程を完成させるもの』として、その上位に位置する。幸いなことに彼は、『良心』を『本能の最高形態』と呼ぶのである」140-1頁

「ベアは一見したところ、真の生気論者で、単なる静的目的論者ではない。彼は両者の基本的な違いに気づいてはいないが、こうも述べている。『生命の過程全体は、物理・化学的現象の結果ではなく、これを制御するものによる』。
…ベアの貢献を、もう一点言及しておく。それは、ダーウィン主義者の言う『生物発生原理(biogenetic principle)』を、発生の歴史が『一般的なものからより特殊な関係に移行するもので、1つの特殊な関係が他に移行するのではない』ことを指摘して、訂正したことである。
…攻撃や誤解をたくさん含んではいるが、実はベアには生気論的な考え方が維持されている」141-2頁

「1890年前後になると、これまでよりも明確に生気論を規定する立場が現れたことで、生気論にふたたび関心が払われるようになった」145頁

「ハルトマンは、現代哲学の代表的人物であり、また、生気論の問題を考察する唯一の現代の哲学者である。…ハルトマンの哲学体系を一言で言えば、『生物学的』であることである。それは、生物学を基礎としており、形態形成、本能、そして人間行動における心理と物理の関係に関して、たいへん生気論寄りに生物学を解釈する型の哲学である。
…ハルトマンの理論は、生気論の歴史にとってはきわめて重要である。それは、要素的生命因子と無機的な因子との関係を明確にするために、生命の自律性の教義を厳格に適用しようとする最初の試みだからである。…ただしハルトマンの理論は、事実問題として生気論に直接関わるものではないし、生命についての機械論的解決が不可能であることを、厳格に示したわけでもない」147-9頁

フォロー

「秩序一元論は、全宇宙が1つの秩序として考えられなければならないという、1つの論理学的要請である。こう考えることは、そもそも生物学や歴史の基礎としては不可能である。なぜなら、どちらも偶然や偶発事件とが混在する統一体だからである。
…経験科学は歴史や生物学と同じように、統一体の問題を提示すらしないで、すべての素材を躊躇なく単一因果性の図式に委ねている」215頁

「ハーバード大学のヘンダーソン教授は、最近『環境の適応(The Fitness of the Environment)』と題する注目すべき本を著した。私は、教授の生気論の問題に対する姿勢には賛成しない。彼は、われわれの言う機械論、生命の静的目的論の考え方を擁護している。しかし、これは問題の核心ではないし、彼の仕事の積極的な成果に比べればささいなことである。…その研究の成果は、生命のすべての現象は結局、他の化合物の常数と比べ、水や炭酸ガスの常数がもつ例外的特徴を本質的にその基盤にしていることを示した。…
 これは、自然界の調和という古典的な問題の、現代的で精密な定式化である。そしてこの調和こそは、宇宙一般の中の統一体、もしくは個体性の記号(sign)に他ならない」216-7頁

「われわれの研究の一般的な結論は、<必要条件>(postulate)としては秩序の一元論に、<事実>(fact)としては秩序と偶然の二元論になる。二元論であることを知っているにもかかわらず、一元論的な要請を救う唯一の可能性は、<原理的に不可知である>とする形而上学の可能性に頼ることである。つまり、空間的記号をもたない実在性の領域が『存在し』、人間の経験は空間的に制限されている以上、生物学的問題も十分満足には解きえない、という仮説に依拠することである」217-8頁

「秩序の理論の一部分としての、自然に関するわれわれの理論すべては、非教条主義的でとりわけ非形而上学的なものとなる。そしてこの自然の理論は、ほんらいの生気論、さまざまな可能な形の超個体的統一体、そして一元論と二元論、の理論を含む」219頁

「時間を完全に別にして、経験される空間性に対応するもの以外に、『絶対』の中に<1つの>特別な関係の系が確実にあり、われわれはその系については、空間性の記号の下で、われわれが知っている系を切断したり交差(across)するかぎりにおいて、知りうるだけである。この理由ゆえに、単純な秩序の理論の領域においてさえ、われわれはただエンテレキーの存在について知るだけで、それ自身のあり様については何も知りえないのである」😅 222頁

「われわれは、決定の概念を強調し、歴史を超個体的エンテレキーによってその生成が決定される超個体的な展開であるもの、と想定してみた。この歴史における生成の前決定論は、われわれが<実際>に用いることはまったくなかった。なぜなら<われわれは>、エンテレキーをその表出(manifestations)から離れては、知ることができないからである。しかしそれは原理的には存在しており、秩序の理論はこれを述べなければならなかった。この理論に従えば、純粋なすべてのエンテレキーについて知っている、歴史の展開的な生成を予言しうる超ラプラス的な精神を想像することは、<可能>ではある」223頁

Driesch, Hans. (1914) The Problem of Individuality, Macmillan.
=2007 米本昌平訳「個体性の問題」227-313頁

「個々の生物が多様度のある型を成しており、それは同時に1つの統合を成していて、技術的に単一の言葉でその本質的特性を表わすとすれば、全体性(wholeness)を体現している。この事実を、誰も否定できない。そしてまた、生物が出現してくるほとんどの過程がこの全体性を維持しており、これが乱されれば回復される事実については、少なくとも否定することはできない。この前者の過程は、一般には発生もしくは個体発生と呼ばれ、後者の過程は、形態の全体性が回復されるのであれば、回復もしくは『再生』と呼ばれる。もし、生物の生理学的状態が乱されてその後に回復すれば、それは適応と表現される。実際の全体性は、このような生物の形態としての全体性だけでなく、生活や機能の形を成すものである」233頁

「実際に全体性を生じさせる全過程を、目的論的(teleological)な、もしくは合目的的な過程と呼ぶことにしよう。『目的論的』という表現は、人間の行動のアナロジーにたって、一定の未来を記述するための、ある瞬間に割り当てられた単純な言葉以上のものではない。個々の生物は、統一のとれた多様性、すなわち実際的な全体性を示すものである。また少なくとも、発生、再生、適応の3つの過程は、あたかも全体性の存在が『目的(purpose)』であるかのような、全体性を保持する過程である。これらは常に全体性を保持し、常にこれは生じ、また生じ、無限にこれが生じることになる」234頁

「生気論とは、われわれは少なくとも消極的な意味で、生命には、機械のような、あるいは力学的な型の過程ではないものがありえ、それはただ形式的な意味以上において、目的論的、もしくは合目的的と呼びうることを意味する。
 生気論の考え方は必然的に、出発点ではその消極的性格ゆえに、この重大問題についての議論が部分的には論理的な型にならざるをえない。もし生気論が証明しうるとすれば、その証拠は、比喩的なものであり、否定形の、機械は生命の基礎とはなりえない、という確信のみから成るものである。機械論の考え方は、そのかぎりにおいて積極的な形で定立されてきた。それは機械なのか否か、という問いとしてである」235頁

「適応という事実すべてが、さきに定義した意味において、<目的論的>(teleological)である点に、いささかも疑問の余地はない。それらはまた、攪乱されると機能的な全体性を回復する。生物とは単に形態に関して<全体>(whole)であるだけでなく、生き物として、つまり機能的な形において<全体>をもっていることを、われわれは知っている。…
 ここで生命の機械説(machine-theory)と生気論を対比してみよう。いま述べた適応の事例だけをもって、このようなふるまいを予め基礎づけられている機械はありえない、と断言はできない。だが、こんな機械は、非常に不可思議で、機械としてはほとんどありえないものであろう。生物が一度も出会ったことがない物質から自身を防御するために抗体を生産する例などは、とくにそうである。そんな機械は不可能であり、この<不可能性>こそ、生気論が確立されなくてはならないゆえんである」238頁

「ルーとワイズマン[ヴァイスマン]は最初、正常な条件下での卵割の予定実現態[発生予定運命]はその予定可能態と『一致する』、言いかえれば、、その可能態は厳しく限定されており、またルーは自身のカエルの分割による実験によってそれは証明されたと信じていた。しかし私はウニの卵を用いて、少なくとも、予定実現態と予定可能態は<同じではなく>、予定可能態の範囲、言い替えれば形態学的運命に関する可能性は。観察される予定実現態、つまり眼前に展開する実際の運命より<はるかに大きい>ことを示すことができた」241頁

「分割胚における予定運命が固定されている事実は、ワイズマン学説とはまったく逆に、核に多様性はまったくなく、卵割が始まる以前には原形質の中では予定運命のいかなる特定化も起こらないこと、むしろ、いわゆる成熟以前には、これは確実に維持されることが示された。また、分割胚における核の相互の相対的位置を加圧実験によって根本的に変更できるし、成熟前の卵から任意の部分を取り除くことができるのだが、双方の場合とも、完全な胚を得ることができる。かくして、われわれの実験結果から、胚は<万能性>をもつと言うことができる」242頁

「ワイズマン[ヴァイスマン]学説の類の理論は、これらの事実を前に成立しえなくなる。確実に、卵は細胞分割の度ごとに分解されていく機械ではない。というのも、単一の分割細胞から、完全な生物が生まれるからである。これは、現形質と核との関係にも当てはまる。
…胞胚の部分は、ごく無規則に切り刻まれても、常に完全な胚を作り出す。これは、卵割初期の2つや4つの細胞の能力が同じであることを証明するものであり、それは胞胚を形成する千個の細胞の予定可能性が同一である場合にのみ、可能な事態である。ここで、<等能個体発生系>(equipotential ontogenetic system)という表現を、同等の予定可能性、つまり同じ可能な運命をもつ細胞からなる発生現象すべてを指すもの、としよう。かくして胞胚は、つづめて<等能系>(equipotential system)であることになる」243頁

やっとequipotentialに込められた意味がわかりました😅

「卵巣(ovary)は、それぞれの卵が生体を形成する能力がある点で、たしかに『等能』である。だが、卵巣と胞胚とでは、論理的に大きな違いがある。卵巣においては、系の個々の要素が、<それ自身のために同じ複雑な全体>、いわば生体を、同等に作り出す能力をもっている。このケースを、われわれは『複合等能系(complex-equipotential system)』と呼びたい。一方、胞胚の場合、それぞれの要素は同じように、<1つの全体を構成する単一部分の役割を、すべてが>担うことができる。もし胞胚をある方向から切ったとすれば、あらゆる個々の細胞が他の単一の役を担うことになるだろう。必要とされるあらゆる部分になりうるのである。しかも個別のケースごとに、それが正常な場合であれ異常な場合であれ、これを担う細胞は常に<調和>がとれており、それぞれに同等の多大な能力を維持している。このような胞胚を、<調和等能系>(harmonious-equipotential system)と名づけることにする」244頁

社会システム理論の起源はこのあたりにあるような気するなあ

「調和等能系とその分化について語る時、生物学における生気論的概念を支持する最も重要な議論がここに依拠することになる。…調和系は、発生学の領域ならどこでも見られるというわけではない。…
 問題はこうである。<何が、等能系の各々の部分について、不均等な運命に導くのか?> 何が、等しい可能性から、同等ではない現実へと変換させるのか? 別の言葉で言えば、形態形成におけるさまざまな特性の<位置づけ(localization)>の問題である。この位置づけの機能はどこから来るのか?
 それは、<外部から>来るのではない。その形態形成において、分化の原因となる局所的な外部刺激(exterior stimuli)があったわけではないからである。…
 この場合、位置づけ機能は、その系内部における<純粋な化学的過程>を基盤にすることが<できない>。…化学的な分解や純化からは、幾何学的な調整による平衡が起こるだけである。しかし有機体は、幾何学的な調整や、この種の調整の組み合わせではない。また、有機体は多くの器官があり、同じ化学的組成をもっているのに、たとえば脊椎動物の骨をみても、非常に特殊な形をしている。結局、個体発生の純化学的理論は、等能性と矛盾することになり、それを説明できない」244-6頁

「正常な系に存在すると仮定された発生学的な『機械』は、その系の<一部分>にも、他の部分にも、また互いに重なりあう異なった大きさの部分に関しても同様に、完全性が存在することを示すべき義務がある…というのも、この系のあらゆる部分が、大きさと、もとの系との割合の点で、完全なものを生み出しうることを、われわれは知っているからである。系を成すあらゆる細胞は、形態形成におけるすべての個々の役割を担うことができる。この役割は、単に『その位置の関数(a function of its position)』に従うのである。
 この事実を前にすれば、発生過程の機械説は矛盾にいきつく。これらの事実は、機械の概念に反する。機械は、諸部分を特殊な形に調整したものであり、そこから、あなたが好きな部分を取り除いてしまえば、元のものではなくなってしまう」247頁

「機械説(machine theory)は、形態形成の現象に対してア・プリオリに適用が唯一可能な、機械論(力学説 mechanistic theory)であった。だから、機械説を放棄することは、この現象に対して機械論の試みを諦めるのと同じである。言い替えれば、調和等能系の分化について分析し研究することは、われわれに対して、少なくとも限定された領域において、生命の<自律性>(autonomy of life)の教義、もしくは生気論の教義をうち立てる資格を与えることになる。形態形成においては、物理=化学的な型ではない、ある作用因が機能しているのである」248頁

「ここでわれわれが、重大な根拠に基づいて、卵は発生学的な機械を保持しているとは考えられないと言明することは、すべてのメンデル主義と遺伝に関する細胞学的な研究は、その偉大さと無視できない重要性とは無関係に、この問題領域の半分しかカバーしない、と主張していることになる。遺伝が現実化することが依存する、ある世代から次の世代へ伝達される物質的な単位が存在し、これらの物質的条件が特定の核の中に位置していることをわれわれは知ることになった。しかし、これらの物質的条件は<主要な事象ではない>。何か<調節>(arrange)する作用因が必要なのであり、遺伝におけるこの調節作用因は、機械に似た、物理=化学的な特徴のものでは<ありえない>」252頁

「本能の主たる特徴は、それが経験によるものではなく、むしろ『初源目的論的(primary-teleological)』、つまりちょうど再生現象のように、<それが初めて生じるとき>の多様性にある」253頁

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