しかしいつの間にか三味線活動がメインになってくると自由よりも制約が強まるのはこの世の常。それにつれ心の自由さ軽さは薄まり、だんだんと心にツヤがなくなってきた。
いろいろあって思いもしない独立をすることになったが、再び自由の領域が増えた瞬間でもあった。
心が求めていないことを空気に従い合わせるような、実に日本的な見えない鎖から離れられたので(当時は全く本意ではなかったのだが)より自分が描いているものに近づけるべく楽曲作りや組織づくりを目指してきた。自分で取捨選択できることも自由あればこそだ。
しかし組織づくりはなかなか難航する。なにせ場所は日本であり、そこに住む人たちがメンバーである。個々人の良し悪しでなく教育的下地が少ないため、思ったような場には簡単にはならない。呪いとも呼べるようなリミッターを感じたり、主体性を持つことや自分の言葉で発言してもらうことも一苦労。
そんな亀の歩みながらも徐々にだが確実に変化もあり、グループの成長を感じていた、そんな時にコロナ禍が訪れる。
ここで私はこの社会の未熟さを再認識して大いに絶望を深めることになる。精神的にも暗く長い冬が続き、雁字搦め手詰まり感を感じる日々。
社会や文化の終末感だけでなく、感染を防ぐべく引きこもる生活の中でジリ貧感が増してゆく。海外在住の友人とたまに話すと「日本の方がマシだ」と言われ、自分の絶望感もマシだと言われているようでさらに気持ちが塞がる。
そしてようやく本題に辿り着けたのだが、ここまで窮地に立ち、身体もあちこちガタを感じているお年頃になり、今再び「自由」について考えている。人生において私はどんな自由を求めているのか、だ。
とあるYouTube番組でゾミアという話を聞く。ゾミアというのは東南アジアの地域名だそうだが、そのエリアに国に属することなく自由に生きる人たちがいるという話だった。
森の中の一定の高度に定住はせず、芋を植え、国の管理の手の届かないところで長年生き続ける人たちがいるという話だった。
同じ生き方ができるわけでもしたいわけでもないが、日本もこれだけ社会が崩壊してくるとなると、社会の崩壊や腐敗と心中するというのも気持ちの良くない話。国民の声を聞かない政治家とも、民主主義を活かさない社会とも、一蓮托生になる必要はない。
このクソ闇鍋でもどう自由に生きるかだ。