友達の少ない子どもだったので、今でもふと不安になる。
中年になって、友達が増えた。とても好きな人達はかりだ。思い合いながらも、率直に話し合える。
と、思っているが、そう思っているのは私だけかも……とか。中学生のような不安がたまによぎる……。

だが、多くは許して貰っていて、友達が「楽しかった!」と言えば、そのまま受け取るのがいい……。

私の障害は猜疑心が過剰になる傾向がある。他者信用が極端になくなる。幻聴もそうしたところから湧いてくるようだ。
入院していたときに「相手の言葉を、言っている通りに受け取っても大丈夫だ」とカウンセリングを受けた。なかなかね……。いや、本当に走りすぎてしまうところもたぶんあるので……。

でも、なんというか、いつもありがとうございます。大丈夫か確認をとってしまう私を許してくれて、ありがとう。

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前の主治医は私を「自閉症スペクトラム障害。フラッシュバックが幻聴状態になっている」と診断した。ただ、自分としては典型例にフィットしないので、どうだかよくわからんな……という気持ち……。
「ひとの気持ちがわかるか」という話では、まあ、よくわからんよな、と思う。けれど、空気や裏を読むことに過剰に頼らない、率直にコミュニケーションできる人間関係なら、さほど困らないなと思う。

「察する」というのは、アサーティヴな側面もあるのかもしれないが、「察して欲しい」ではなく、「して欲しいことをちゃんと伝える」方が、コミュニケーションのバリアフリー的だと思う。

自分としては、嘘は少なく、だけれど言い方を考えて伝えるのがいいな、と思う。
その場で言えなかったことも、あとからでもいいから、丁寧に伝える。
不満が残らないように、私はこう思ったんだよ、と言う……。まあ、なかなか余裕がないとできないんだけれどね……。

今の主治医は私を「熱中性格」と診断している。興味のあることに熱中して、飽きやすく、几帳面さがない。こちらの方がしっくりくる(幻聴は「複雑性PTSD」ではないか、とも。「統合失調症」の典型例からも外れる)
まあ、よくわからん。スペクトラムというのは文字通り区分できないのが特徴で、そもそもにゅるっとつながっている身体や症状を区分できるという発想がデカルト的時代遅れなのだ。

でも、「定型発達」なる典型例はあるのではないかと思う。境界はスペクトラムだが、ボリュームゾーンはあるのかもしれないな、というのが、日本で生きている実感だ。ただ、「発達障害」が文化依存しているという説は、おそらく当たっている。「同調圧力」と「同質性圧力」が日本の文化では強いだろう。だからこそ、「社会モデル」が求められるのだよね……。

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