大学生のときに郊外について研究したいと思っていた。千葉郊外が地元である僕はそこでの暮らしに疑問を感じていた。一人ぼっちの鍵っ子で、自分自身の自閉的なところや他人の感情についてよく理解できないあり方からなのか、友達らしい友達を作りづらく、肩身が狭いといえば狭かった。
なので、そういう郊外の環境をより良くするにはどうしたらいいのかということを研究したかった。したかったのだが、なぜなのかうまくいかなかった。

なぜなのかを考えては忘れ、考えては忘れていた。そして今日、なんともなく思うのは、それは中心とすべき問題から外れていたからではないかと思うのだ。
郊外の地元で暮らしていた時、僕は子供だった。僕は親の周辺にいた。僕が生活していたというよりも、親の生活に依存していたのだった。そして父親は医師だった。僕が研究するべきだったのは医師やそれにまつわる生活、社会だったのではないか。
もちろん医師と社会を考える上で、郊外は一つのキーワードだろう。だが、やはりそれは一つの脇道に過ぎない。

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医師とは技術者だろう。だが例えば情報技術を扱うような技術者ではない。人は都市にも郊外にも農村にもいる。どこにだって住むし、そこで暮らす人を助ければ生活できる。家族を無視すれば場所には囚われない。
私の父親に降り掛かった災難とはどういうものなのだろうか。医師であるべきだとされた父親はどのような苦痛を受けたのだろうか。医師会というのがあるという話を聞くが、その中での違和感についいて吐露している父親も見たことがある。あれは一体どういうことなのだろうか。

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