流れてきた投稿で社民の大椿さんが尊厳死の問題に絡んで「純粋な自己決定なんて存在しない」と発言しているのは全くその通りだと思う。他ならない「自決」という言葉と行為は、自己に国家を内在させよという意味を含んでいる。「他人に迷惑かけるくらいなら死ね」と「国家の為に殉ぜよ」はほぼ同義である。
欧州における尊厳死は、近代的な個人主義の背後にキリスト教という「超国家的価値観」があるからこそギリギリで成立している部分があるように思う。これ日本で制度化したら100%アウトですよ。 地獄が始まる。尊厳死を求めている人は一定数存在するのでしょうが、それでも自分は断固反対します。綺麗事ではなく。
尊厳死を制度化させようと動いている勢力は、「これを求めている声がある」「それはやむを得ず必要な措置なのだ」と言うが、それは嘘。国家は「死」を必要としている。国家は権威を維持する為に、常に「殺す相手」を積極的に求めてやまないからだ。
玉木の「社会保障費を抑えるために死んでもらう」論法もそれはそれで恐ろしいが、実はこうした「冷たい合理性」は「国家の非合理性」を隠蔽するための方便に過ぎない。誰かを犠牲にすること自体が「彼ら」の目的なのだから。
彼らは「国家の為に積極的に死ね」とは大っぴらに言えないので「社会/経済の為にやむをえず死ね」と言い換えているだけだ。この「国家」と「社会/経済」との意図的な混同こそが日本(だけじゃない)を蝕んでいる病の根幹だったりする。誰もが「自分は自由な経済社会に生きている」と進んで誤認しつつ国家に跪いている。
と言うか、残念ながら人間は「殺したい」生き物なのだ。(動物と人間とを分つ点は多分ここにある。動物だって時に同類を殺すようだが、これが恒常的なオブセッションになっているのは人間だけだろう。)そして人がしばしば自分も殺される立場なのに国家に加担するのは、この暗い愉びを共有するためだ。それがある種の「力」の感覚となり、自分の存在の肯定感を高めるのだろう。弱い人とはそういうものだ。だが人間の尊厳とは、こうした抜き差しならない自分の性質と死ぬまで戦い続けることにある。逆に言うと人間の栄光はそこにしかない。
@tsbasatoru 維新馬場の福祉施設乗っ取りは記憶に新しいが一般例として、資産を奪い尊厳死というパターンが増えるだろうな
日本財団は高齢者に資産の寄付を呼びかけていて各地の老人ホームにも触手を伸ばしているが、玉木は傘下の東京財団出身なので(竹中平蔵が理事をしていた)イヤ〜〜〜な感じだ
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