ちゃんとした芸人もいるんだよな。
"僕はクリアにした方がええと思うんですよ。この事実無根という言葉の根拠をね。なんでか言うたら我々、言葉で仕事をしているでしょう? 言葉って重いと思うんですよ"
https://miyearnzzlabo.com/archives/108616/2
Netflix『終わらない週末』、映画としてはまぁまぁかな程度の評価なんだけど(ただTeslaのあれは笑った)、こういう「なんともいえない分断と終末の予感」みたいなのが昨今のアメリカのうっすらとした空気としてありそう、という意味ではリアルな感じがすごくした。もっと言うと、「なんともいえない分断と終末の予感」を前にしてモタモタしてる、みたいな感じ。
オバマ夫妻がエグゼクティブプロデューサーやってるのも(原作ファンらしい)、まぁそういう「空気を感じ取って」ってことなのかも。
あとアメリカ人のなかにある孤立欲求(独立した自由の保持と排他性)と孤立恐怖(コミュニティ維持への熱意)みたいな、矛盾した感覚が細かなエピソードにとてもよく出てると思った。
【Threads定期】
Threads、わりとシリアスな話も流れるようになってきている。
けれどもなんか「いい話」みたいなのもたくさん流れていて(Twitterにもよくあるやつ)、そういうSNSお手軽いい話とかを続けて見てると胸やけというか
あんまり細かく分析する気にもなれないけど、なんだろう、いい具合にウオッシュされてる感じ、つまり広告業界臭、がやはりするんだけど、それは「実際にそう作られている」というよりも、なんかSNSに生息してる人たちのなかでも"最適化"された人たち、という印象もある。
なんかもうそういうテキストしか吐き出せない、みたいな。
Twitterも最適化された人たちがたくさんいて、それはつまり言説の量産ということでもあるんだよな。
Twitterのぐるぐる回ってる感。
しかしまぁ昔も「マンガじみた」みたいな言い方をすると、「マンガをバカにするのか」的なことを言う人はいた。
今いないのは、マンガというメディアがそんなことを気にする必要がないほど存在として巨大化したということであって、つまり逆に、わりと零細な、マイナーな文化周辺の人らはそういう言い回しを気にしてるっていうことなんだよな。
かつてのマンガ周辺みたいに。
ただ、だからといってそういう言い回しをすべてやめるべきかというと、あらゆるメディアにつきものの愚かしい、あるいは滑稽な部分というのはあるわけで、そこまで(言われる側が)気にする、苛立つというのはどうなんだ、そしてそれを言う側が配慮するのもどうなんだ、という気もする。
ファンというのはわりと対象(と自分の気持ち)をすべて善的なものとして扱いがちなわけだし、一方の言ってる側、たとえば「プロレスしてる」と言ってる場合のプロレスっていうのはプロレスの最上の部分、または全体を指してるわけではなくて、ちょいダメなところをイメージしてるわけだし。
そういう噛み合ってなさ、みたいな。
こういうものが出てくるのも、やはりSNSというかTwitter環境の悪化みたいな雰囲気をあらわしているんだろうか
https://sizu.me/home
しかし「有益な情報を書くことはあまり求められていません」と敢えて書いてるのは面白い。これはblogの衰退とも関連しているような感じがする。
エッセイ的なものを書く場所、というのにどういうものが求められているか、自分では書かないのでよくわからないけど、noteのキラキラでスカスカしたテキスト群とは違うのかもしれない。
まぁ古のテキストサイトみたいな孤立した個人サイト(ゆるい横のつながりはあったが)みたいなものが、そういった個人のエッセイ的な「好きなもの」を書く環境としては結局よかったのかもしれない。
そこらへんの敷居を低くしたのが初期はてなダイアリーだったろうし、そこから「つながり」の方向へと発展してしまったのが衰退への一歩だったのかもしれない。
エッセイ、個人の内側へ向かうものだとすれば、外側へ開きすぎている環境というのは向いてないのかもしれない。あくまでイメージだけど。
開けた草原で書くよりは、洞穴とか小屋で書いたほうがいいものが書けるような気がするじゃんか。