映画『いちご白書』(1970) ※ネタバレ 

ざっくりだけど結末にまでふれている。
体験記の映画化らしいけどそちらは未読。
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まず意外だったのは、「いちご白書」というタイトルのこと。
これは作品の元になった現実の大学闘争における学生側の主張を、その大学の偉いさんが「"いちごが好き" と主張しているに等しい」と評したことからつけたらしい。そのことは映画の序盤に登場人物の口から語られる。

つまり「この映画はある種の人々から『いちご云々』と揶揄されるような営みを描いたものです」と作り手自身が早々に表明していることになる。

自分はこの映画自体は未見だったものの、タイトルはかなり前に目にしていて、制作された1970年前後という時代のイメージ(ファッションであったり、まさに学生運動であったり、ある種のフォークをはじめとする音楽であったり)と相まって「なんだか甘ったるい、感傷的な名前だな」と冷ややかに受け止めていた。心の一部では嘲笑すらしていたかもしれない。

その感覚はある意味で的を射ていたということになるんだろう。作品のモデルになった学生たちを冷笑した大学の人間とほぼ同じ感性をもって、自分はこのタイトルを笑っていたということだから。
このタイトルとそれを冠した映画そのものを、この運動を笑ったような大人へのアンサーとするなら、自分はそのアンサーを向けられる対象に、映画を見ながらすでに含まれていたということだ。

自分は古い時代のエンタメに対して平均以上に興味があるつもりだけど、それらを作り、楽しんだ人々への無意識の見下しを暴かれたようで、そういう意味でも個人的にかなり居心地の悪い思いをした。

同時に、この学生運動のような政治的・社会的直接行動が古臭いものであるとするなら、それに対する冷笑的な態度もまた、50年前(か、たぶんもっとずっと前)から繰り返されてきた古臭い振舞いなのだろうと思った。

ちなみにWikipediaによると、"いちご" 発言をした当人は、意図とかけ離れた引用がなされた旨をのちに主張したそうだ。
ただ映画を見る限りは「学生はこう受け止めていた」という様子を描いているにすぎないので、その主張に理があったとしても、作中の描写とは両立するように思う。

話が逸れたけど、つまりこの映画には全編にわたってそのような自己言及、自意識の透明なフィルターがかかっていることになる。

そこで映画の内容が「大人たちは馬鹿にしましたけど、本当はもっと真摯で緊張感のある運動だったんですよ」と主張するような内容であればある意味分かりやすいのだけど、どうもそうではないようだった。少なくとも自分にはそうは感じられなかった。

まず主人公が運動に参加する動機からして、女目当て+興味本位という相当に軽薄なものだ。のちには真剣に運動に取り組むようになるものの、友人に殴られた傷と流血を警官によるものと偽ったり、学生が警官を数で圧倒するや否や警官たちを手ひどく弄んだりするような場面もある。一連の運動を擁護したいのなら絶対に不要なシーンだ。全体的に「真摯で公正な学生運動」を描いたものではまったくない。

そもそもこの映画は大学闘争を描いたものであると同時に、闘争下の大学を舞台にした青春/恋愛譚の側面もあるように思う。
だとするなら、学生の軽薄さ・未熟さが描かれるのは当然だ。いわゆる「若さゆえの過ち」を描かずに青春映画を成立させることは、ほぼ不可能だろうから。
つまりこの映画はどうしたって「完璧な学生運動の映画」にはなり得ないし、作り手もそれは承知の上で未熟さをさらけ出しているように見える。

だとしたら、そのような映画にあえて「いちご白書」という名前を付ける意図はなんだろう。「やっぱりいちごみたいなもんじゃん」と言われてしまいそうな描写やシーンをあちこちに散りばめているのはなぜだろう。

自分としては、ある種の諦めなのかなと思った。
「私たちには真剣さも、いい加減さも、怒りも、欲望も、本当も嘘もあったけど、あなたたちは私たちの至らないところを見つけては笑うのでしょう、あなたにもそういう時代があったはずなのに」といったような。そうとらえるのが自分には一番しっくりきた。

そのように諦めが支配する映画として見ると、最後に警官が突入して催涙ガス?が撒かれ、学生たちがなすすべなく外へ連れ出されていくのも、必然的な成り行きのように思えた(ただし、学生たちが「犠牲者は多いほどいい」「ほどほどの数じゃダメだ」と話す場面があるように、警官が突入して行使するであろう暴力をパフォーマンスとして利用しようとしていた面もあったようだ)。

上に書いたように、この作品は大学闘争の映画でありつつ青春映画でもあることでややこしくなっている部分があるように思う。でも現実の人間だって公私を必ずしも分離できてはいないわけで、その割り切れなさがある意味人間的で生々しいとも思った。想像よりも複雑で、冷めたところのある映画だった。

映像について。
要所要所にドキュメンタリーを思わせる手持ちカメラのような映像があった。クライマックスの突入シーンではそれがとても活きていて、今見てもけっこうな迫真性を感じられた。

印象的だったシーン。
画面に映る網目の向こうに、真上から見下ろす形でボートが通り過ぎていくのが見える。
カメラが上方向に振られると、橋脚やその向こうの河川、横方向に走り抜ける車が映り、その網が橋の上の道路だったことが分かるところ。

あとは大勢の学生が土下座の姿勢で大きな円陣を作っているなか、催涙ガス?が巻かれる様子を真上から撮っているところも印象に残った。

大学施設の入り口に刻まれてる言葉「すでに賢い者であっても生きて学ぶことは恥ではない(Though man be wise, it is no shame for him to live and learn)」は、ソポクレスという人の『アンティゴネ』というお話に出てくる言葉らしい。ネットに落ちてた原典らしきものを機械翻訳頼りで見てみた感じ、「賢い人でもさらなる学びを得て、また時の移ろいに応じて考えを変えることは恥ずかしいことではないんだよ」ぐらいの意味かな。分からないけど。とりあえずメモ。

あと、映画とはまったく関係なくビースティー・ボーイズのWikipedia記事をたまたま見ていたら、メンバーのキング・アドロックの父親が本作の脚本家らしくてちょっとびっくりした。
#映画

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