映画『透明人間現わる』(1949) ※微ネタバレ
参考にしたとされる米国版の『透明人間』(1933)はたぶん見てない
おそらく青少年向けに作られているのだろうけど、それもあってか演技、セリフ、その他諸々ほぼ記号の組み合わせでできてる感じだった(作劇というものの仕方・考え方自体も現代と違うのかもしれない)
そのため展開が異常にサクサクして見やすい
むしろ現代の(一部の)映画はなぜあんなにも記号的なものを忌避するのだろうかと、見ながら考えたりした
答えは「そうしたいから」でしかないだろうけど
全編通して透明人間の主観視点が頻繁に出てくる
考えてみれば「透明な動物がどこを向いてどう移動しているか」を映像で示すには主観視点がもっとも手軽で分かりやすいので、合理的といっていいかもしれない
透明人間が銃を持つときには完全にFPS的な画面構成になった
最終盤、水面に朝日だか夕日だかの光が照りつける海辺(浜にボートが停まっている)へと木の間を通って数名の人が歩いていく姿を逆光でとらえたシーンがとても素朴で美しかった
特撮は、画面の不鮮明さもあって、今見てもどうやって撮ったのか素人目にはよく分からない部分が多い
透明人間が衣服を着脱するところ(衣服がちゃんと人体的な丸みを帯びているように見える)などはコマ送りで何度も見てしまったけどやはりよく分からない
現代の作品だと、どうやって撮ったのか分からなくても基本「まあCGとかでどうとでもなるんだろう」としか思わない
アナログ期、特にこれほど古い特撮には神秘性という強みがあるなあと改めて思った
そうだとするなら、むしろ映像技術が変遷すればするほど最先端の映像に親しんでいる観衆から見た神秘性は増していくのだろう、理屈でいえば
一部、屋外のシーンなのにアテレコの声が室内のような残響を伴ってるのがおかしかった(トンネル付近で透明人間?を追跡するところ)
他の屋外シーンはそんなことなかったけどそこだけ何なのか
見た版は、おそらくデジタル修復などはされてないものだった
モノクロ期の映画に関しては、映像・音声ともに修復・リマスターの類は基本されてない方が好きだ(例外もある)
現代との距離感を楽しみたいところもあるので、妙にシャープな映像に出くわすと萎えることが多い
まあそっちの方が作り手の意図に近いことが多いのだろうし、資料としても鮮明な方が好ましいのだろうからするなとはいわんけど
どちらの版も選べるなら何の文句もないのだけど、修復版が出ると結局なんだかんだで古い版は駆逐されていく
配信が主流になりその流れは加速しているように思われる
言っても仕方ないけど嫌である #映画 #特撮 #SF