映画『アメリカン・ユートピア』(2020)
※もし読まれる方がおられましたら。投稿者はデヴィッド・バーンやトーキング・ヘッズの熱心なファンというわけではありません。本作と『ストップ・メイキング・センス』だけを材料に、感受したことや考えたことを書いています(客観的事実については、できるだけ間違いのないようにしていますが)。そういうものとして扱っていただけると助かります。
トーキング・ヘッズの中心人物だったデヴィッド・バーンがブロードウェイで行ったショーを、スパイク・リーが映画化したもの。
ショーはTHおよびソロで発表した楽曲を選抜し、順次演奏・歌唱していく音楽ライブの形式。ただ、一般的なライブとはかけ離れた構成・演出がなされている。そのショーを緻密に組み立てられた構図でとらえたこの映画もまた、いわゆるライブ映像とは一線を画すものになっている。
何もない矩形のステージ上で、デヴィッド・バーンと十数名のバンド&ダンサーが歌と演奏とダンスを繰り広げる。すべての楽器はワイヤレス・ポータブルになっており、メンバーは演奏しながら常に動き回り、ステップを踏み、踊る。縦横に入り乱れ、フォーメーションを組み、また離れる。ときには全員が横一線に並んで演奏する。
MCで語られるように、演者は英国出身のデヴィッド含め、幅広い国籍・ルーツをもつ人々で構成されている。そこにはいかなる境界も序列も存在しないという印象を強く抱かせる演出だと感じた(身もふたもないことをいえばそりゃデヴィッドが一番権力もってるだろうけど、あくまで客から見える世界の話)。安易に言語化すると陳腐になりかねないメッセージを、状況そのもので伝えているように思えた。
トーキング・ヘッズ時代に本作に近い方法でライブを映像化した『ストップ・メイキング・センス』のライブメンバーも、多様な人種・国籍で構成されているように見えた(実際の国籍やルーツなどを確認しているわけではない)。民族や国家を超越しようとする姿勢は当時から一貫したものなのだろう。ケーブルや据え置きの楽器による動作上の制約から演者を解放することで、その姿勢がより明確に表現されていると思った。
(ただし、本作にも『ストップ~』にも、たとえばモンゴロイド的な見た目をしているメンバーはいなかったと思う。多様であること自体を目的に選抜したわけではなく、民族・国籍を真に度外視した結果としての多様さなのかもしれない。自分としては、それはそれで好ましいと思う)
またこの人は、たとえば「かっこいい/かわいい/コミカルである/ラグジュアリーである/クールである/過激である/エモーショナルである/ロジカルである」といった明瞭なパッケージの仕方・され方を徹底的に拒絶し続けてる人なんじゃないかと思った。
輪郭が曖昧なままにエンターテイナーとして存立することを目指した結果が、何もないステージでスーツ姿に裸足の人々が歌い、奏で、踊る奇妙なショーなのではないか。だとしたらその指向もまた、一言ではおよそ形容しがたいショーになっていた『ストップ・メイキング・センス』と通底しているように思える。
芸能・クリエイティブ・SNSなど含め、かっこいいでしょ?/かわいいでしょ?/コミカルでしょ?/ラグジュアリーでしょ?/クールでしょ?/過激でしょ?/...と(内実の複雑さとは関係なく)明確にプロデュース・パッケージングされた表現が我先にと自己主張する時代におかれたとき、その規定しがたい…言葉を換えればPRしにくい奇妙な表現は、比較的に饒舌ではないし、一見不安定で頼りなくも思える。
にも関わらず、デヴィッド・バーンはじめ演者たちが奇妙なパフォーマンスを堂々と行うさまは見ていて清々しい。自分とて日頃は、かっこいいもの/かわいいもの/...の刺激にさらされ、またそれらを求めもしながら過ごしているわけだけど、そんな自分の心をもこんなに強く掴んでくるのはなぜなのかと思う。
分からないけど、デヴィッドが一見突飛な手法をとりながらも常に「現実」にコミットしようとしているのがひとつの理由なんじゃないかと思った。
今回の上映では、冒頭にデヴィッドとスパイク・リーの対談が特別映像として加えられていた。そのなかでデヴィッドは、表現が社会的・政治的であることを避けてはいけない、それは公民としての務めだ、という意味のことを言っていた(うろ覚え)。アーティストはこの世界が楽しいだけの場所であるような振りをしてはいけない、とも(同じく)。公演中にも、投票のための有権者登録を促進する運動に自身が携わっていることを語り、観客にも登録を促していた。
ショーで披露されたなかに、直接的なプロテストソングはほとんどない(1曲、警察官による有色人種への暴力を扱った歌をカバーしていた)。多くの詞は婉曲的、比喩的、暗示的だ。でもそれらの多くは幻想や架空の何かを描いたものではなく、ある人間の姿や、その人々の集合である社会・世界を描いている。ひとつの比喩、ひとつの振り付けからそのことが伝わってくるから、見ている自分も傍観的ではいられなくなるのかもしれないと思った。
トーキング・ヘッズ時代から通してデヴィッドの表現にはダダイスムの影響があからさまに見て取れる(本作でも、「I Zimbra」に加えて他のダダイスム詩人の詩を引用したという短い曲を演じていた)けど、ダダも地域によっては強烈な社会批判・政治批判をともなう運動だったらしい。そのことも念頭にあるのかもしれない。
自分たちを取り巻くもの、飲み込もうとするものに対して、ときに暗示的に、必要とあらば直接的に、結果的に奇妙になろうとも、常に楽しく立ち向かうデヴィッドの毅然とした態度が隅々まで反映されたショーだと思った。泣けたし、心がとても動かされた。
記録として。自分の感情的なピークは「This Must Be the Place (Naive Melody)」だった。涙がこぼれる寸前までいった。その後は少し落ち着いて、でも常に気分が高ぶった状態で見た。一夜明けてもまだ心身がどことなくうずうずしている。