映画『悪い子バビー』(1994) ※一部ネタバレ
投稿の前半で、基本的な状況設定への言及あり。後半では、ストーリー上のひとつの山場と思えるエピソードに具体的に言及している。
映画にかこつけて考えたことを書いているだけなので、感想や評価を期待する人にはたぶん無価値な文章。見た方がいいかどうかでいうなら見た方がいい映画だと思う(虫が結構出てくるのと、動物がつらい目に遭う描写があるので、そういうのを見たくない人には薦めない)。
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序盤の状況について。
主人公を取り巻く環境は極めて異常ではあるけど、あの閉塞感自体はそれほど非現実的に感じられなかった。それがとても怖いと思った。
外界と隔絶されることでつらいのは、「自分を規定してくれる人がいないor少ない」ことだと思う。(おそらくは物心ついたときから)母親と二人暮らしで、実質的な軟禁状態にある主人公は、母親の「お前はいい子だ/悪い子だ」という2択の評価でしか自分を規定することができない。本来なら保護者は「いい/悪い」だけではなくもっと多様な物差しで「君は今、こういう人かもしれないね」と(すべてをそのまま言葉にはしないにせよ)教えてやるものだと思うし、外界にはもっともっと多様な尺度で自分を規定してくれる人たちがいる(友達、先生、上司、恋人など)。そういう人たちの自分に対する心証や評価にふれ、「ああ自分はこういう人間なのかもしれない」といういわば「自分像」が形作られていくものだと思う。
多くの人はその自分像を決して気に入っていないと思うし、それはそれで辛いものだけど、その自分像は少なくとも多層的・多面的だろう。「このレイヤーの自分はほんとダメだけど、こっちのレイヤーでは捨てたもんじゃないかも」というように、自己評価を分散させることができる。
主人公の抱く自分像はおそらく「いい子/悪い子」のどちらかでしかなく、しかもそれが母親の機嫌ひとつで入れ替わる。自己評価が日に何度も180度転回し、それを自分ではコントロールできない。これで正気を保てという方が無茶だと思う。
この主人公は一種の洗脳によって軟禁状態におかれているけど、ここまで極端な手段をとらなくても、社会とのつながりが絶たれてゆるい隔離状態に陥ってしまう、あるいは自らをそう追い込まざるを得なくなることは、今の日本でもそう珍しくないんじゃないかと思う。たとえば身寄りのない年配者であったり、いわゆる引きこもりであったり、そのほかにもいろいろ。
自分にもリアル・ネット問わず他人とほとんど接触しない時期があったけど、「他人との相違の中に自分を見出す」という作業ができないこと、自分が何者であるかを自分で決めるしかないことは、今から考えるとつらかった。もっとも自分はその時点で精神的にそれなりに成長していて、かつ極めて強い自己肯定感を持っていたので、つらさを意識してはいなかったけど。
そのように、程度は軽いとはいえ自分にも経験があるし、また人づてに聞いたりニュースなどで見たりして、ゆるい隔離状態に(ときに自ら)追い込まれていく人がたくさんいることを自分は知っている。監督が主人公の状況を現実の写し鏡として描いたのかは分からないけど、自分は現実に通じるものを感じて、そのことが作中で展開される異常な状況以上に怖かった。
●ここからネタバレ度合い増●
主人公の癖について。主人公には、他人が自分に対して行った言動を正確に記憶する能力と、それを模倣する癖がある。ある人物が自分に対してかけた言葉を、のちにまったく関係のない相手に突如投げかけたりする。脈絡がないから相手は当然戸惑う。ときに誤解を生んで、深刻な事態を巻き起こしたりする。社会が一つのパズルであるとして、ピースをランダムに入れ替える社会実験のようで面白かった。
上記のようにその実験は大抵はろくな結果を生まないのだけど、主人公が飛び入りでバンド演奏をバックに歌うことになったとき、奇跡的な結果を生む。これまでに出会った人々からかけられた言葉が、ランダムに組み替えられて主人公の口から飛び出すと、奇妙だけどとても刺激的なポエトリーリーディングに変貌する(ライトを浴びて顔を歪めながらがなり立てる主人公がニック・ケイヴに見えた)。盛り上がる客。一般社会では困りものでしかなく、自身を何度もつらい目・悲しい目に遭わせてきた主人公の癖が、芸術・表現のフィールドでは得難い武器になる。形式としてはいわゆる伏線回収をやっているのだけど、そんな解説が野暮に思えるぐらい鮮やかで力強いシーンだった。表現することの救いって、本当にこういうことだと思う。
全体に寓話的な雰囲気の作品とはいえ「社会に適応困難な人が意外な能力を活かしてバンドやって大成功」はご都合主義的にすぎると感じる人もいるかもしれない。でも自分としては、主人公が演奏に乗せて言葉を吐き出し始めた瞬間の驚きと高揚感は忘れられない。本当に涙が出た。
このエピソードに関して、もうひとつ印象に残ったシーン。何度めかの演奏中、主人公が知的・身体障害があると思われる女性のしぐさの物真似をする。なお主人公はこの女性の言葉を理解できるおそらく唯一の人であり、2人は友情(女性にとってはそれ以上の感情)で結ばれている。
このシーンを見たときは複雑な感情になった。一言で言うと気まずかった。他人の障害を表現として真似する、つまりネタにするというのは、上記のような関係性を踏まえてもかなりのタブーだ。ただ、主人公は主人公でおそらく知的障害を抱えている(自分は精神医学に関してど素人なので、この見立てや表現は不適切かもしれない)。知的障害をもつ人が、なんら悪意のないままに、信頼関係を築いている相手の障害に起因するしぐさを真似することは、いいことかよくないことか。観衆はそれを楽しむべきか否か。
表現における不謹慎か否か問題というのはケースバイケースなので線引きは不可能だし、だからこそそれを楽しむにせよ、楽しむことを非難するにせよ(、楽しむことを非難することを非難するにせよ)、一般論に終始するのではなく、個々の表現の背景を丁寧に斟酌しなければならないと自分としては思っている。その意味で、このシーンはよい演習になるかもしれないなどと思った(表現が常に新規性を求めるものだとすれば、この状況は必ずしも極端な想定ではないと思う)。 #映画