ジム・オルークが石橋英子と語る、音楽を取り巻く「少し変」なこと。音楽体験を拡張する環境と文脈の話 | CINRA
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ステージと観客の間にでかい池があるのよい

表現の文脈とかアウトサイダーアートとかの話 

"何でも聴きたければ、読みたければ、見たければ、簡単にリーチできるようになったけど、文脈が少し消えたと思う。文脈がなければ、それからどこに続いていくのかがわからない。

たとえばミュージシャンでも、この音楽は歴史的にこういうところから影響を受け取って、この人の影響を受け取って、この人に影響を与えてって、そういう地図みたいなものがなければ、もう自分の道を見つけることは難しい"

なんかわかる
作り手の話は分からないけど、受け手に関していえば、音楽に限らず表現・創作が流通の過程で文脈から切断されたうえで受容されることが増えたと思う

作り手の側が、美術なら美術の系譜を踏まえて作ったとしても、どんな人にどのような形で届くかをコントロールしにくい(たとえば作品写真がSNSでシェアされたり)ので、受け手のもとに届くときにはその作品がまとう文脈が剥がれ落ちていることがままある

美術でいうと、いわゆるアウトサイダーアートとそれ以外の作品の相違をちょっと想起する話でもある
アウトサイダーアートは、その性質上ほとんどが美術史の系譜から外れたところに現れる
だからこそ文脈を知らない人でも同等に楽しめるという意味で、一般的な美術、特に現代アートなどに比べて開かれた表現ともいえる

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一方でそれらの多くは極めてパーソナルで独立した作品なので、先人の作品を踏まえて新たな表現を生み出したり、あるいはその時その時の社会のあり方を反映させたりといった連続性のある営みにはなりにくい

作家・作品と受け手が互いに個として対峙する表現のあり方はもちろんあっていいし、それだけあればいいという人もいるかもしれない
ただ人間社会というものが縦横の連続性をもつ以上、表現が同様の性質をもつのは自然なことだし、逆にそういった表現によって社会の連続性が見えてくるところもあると思う

時間・空間の隔たりを飛び越えてあらゆる作品を並置したうえでアルゴリズムによって選出・提案される仕組みが、受け手に対してそのような連続性を見えにくくしているところはあるかもしれない

ただし昔の人が文脈をきちんと踏まえて鑑賞していたかというと、そんなわけない気がするけど
多くの人はテレビ局や出版社やレコード会社や広告屋が提示するままにコンテンツを消費していたのではないか
その意味では目糞鼻糞かもしれない

あとこれ書くのちょっと怖いけど、"「批判はダメ」のニュアンスがある" ところもアウトサイダーアート/アール・ブリュットと相似形
別にアール・ブリュット作品を批判したらダメとは言われたことないけど、まあ覚悟いるよね

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