ゴールデンカムイでも思ったのだけど、鑑賞側が「戦争帰り」を一種のフェチというか「萌えポイント」みたいに受け取ってしまうことを私はとても怖いと思う。「そのキャラクターを描く上で重要な要素」という以上に、消費の対象にされてしまう怖さをおぼえる。
観終わった。
「上が下を搾取する」っていうのは戦地でも本土でも変わりなくて、戦争が終わっても続いてて、水木も物語初期はどうにか上側になろうとしてたふしが感じられるけどげげろうと出会ってからはこの構図自体を崩さなきゃってなって、その結晶が「ツケは払わねえとな!」なのかな。そんでこの台詞、「この国が滅びるぞ」への返しなのがまたいいんだよ。この国が弱者へ強いてきたツケをどいつもこいつも払いやがれ!っていう。
愛するもののために、っていうのが結局欺瞞でしかなかった戦地を経験した水木にとって真実愛のために戦うげげろうは眩しかったろうなあ。ここの上官とげげろうの対比もそうだし、「強いられた玉砕」とげげろうの本当の自己犠牲の対比もだし、これめっちゃくちゃ骨太な反戦映画やん…。
タイトル出るタイミングもいい。そこでしかありえない、というタイミング。
内容に触れてるのでいちお畳む
小さいころの水木に妖怪の話を聞かせてくれてた「子守りの婆さん」ってのんのんばあか!?