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あと3枚ぐらいは焼かないといけなさそう
あと3回は「むむむ…」が見れる。割と適当な分量だけど背伸びするみたいに膨らむいい生地ですぜ。

ホットケーキを焼き始めたら思ったよりも時間がかかっている
寝る時間が来ているが不思議と焦りがない。椅子を引きずってきて、ホットケーキが「むむむ…」って膨らむのを眺めることにする

@Ottorisussu わーいありがとうございます✨✨ご予定がお空きになるのをのんびりお待ちしています😊

妄想力の調子が良くなってしまったので、昨夜は夢の中で夜釣りに行った。楽しかった
今夜もどこかに行くと思う

大きなポポラスリーフの切り枝を見た。丸いユーカリの葉っぱは擦れるとしゃわしゃわ言うところがいい。家に木漏れ日が欲しいけど、あんなに大きな木は置けないので木漏れ日の柄の傘買うかちょっと迷う
家の中で傘差したらなんかすごく面白いと思う

結局、勉強することも「勉強することは親から怒られることではないから」じゃないのか、とか、クラシックや純文学を好むことも「権威に縋っているのではないか」とか思う
何かを好きでいることって難しい

おしゃれなカフェに行ったり、素敵なスポットを訪ねたり、ネイルをしたり香水を買ったりすることは、確かに心を軽くしてくれることのはずなのに、「単にそれをすれば心が軽くなると決まっているから」とか「人はみなそうしているから」とか「そうすることが世間一般的であるから」、そうしているんじゃないか己が信用ならない。
本当に「自分がしたいこと」をしたい。
でも「流行に乗っかるのでもいいから一度やってみる」が大事なのも分かる。
なんとなく軽薄だ人生が

疲れることがあったから、意識を飛ばすために全然違うことを考えている

ふと思い出したけど、ジブリの「思い出のマーニー」、あれまあまあ好きなところもあるんだけど、この前金ローで見て「これ、視聴者に伝わる?」って不安になった。それは杏奈やマーニーが己の環境を苦痛だという時の理由付けが視聴者を納得させられるものではなさそうだからなんだけど、アレが私は結構好きだったりする。子ども本人の視点からすると「ばあやが髪を酷く梳くこと」も「優しい養母だけど、自治体から補助金をもらっていること」もとても重いことで、そのことを受けて苦しみを感じているということだけが問題になっている。結構いごこちがいい気はする。そういう受容がされるなら、私も心地よく受容してもらえる感じがある。面白いね

好きじゃねぇなぁってか、「そんなことをされると、自分がやりにくいからやめてくれよ」って感じ
でもその感覚があながち間違いではないとは思うけど…

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結局、毒の効果や成分をいくら列挙したって、毒の味が飲んだことのない人に伝わるわけもないので、表現物にするということの限界(仮)を感じてしまうわけなんだけど
漫画で表現をするとき、漫画は特に分かりやすさが大切だから、「見た目が派手で分かりやすい状況や行為」「定型の表現方法による感情表現」ばかりが採用されてしまうのはある程度そういうもの。そのたびになんとなく自分と漫画世界との差異を感じてしまうし、差を感じずに読める人々との溝も広がる一方になってしまうのではないかと不安になるよね
毒親とかは本当は、「何をされたか」よりも「1人の人間がどう思ったか」を大切にしてほしいと、個人の苦しみからは思うのだけどね。それを表現できるほど、漫画の技術も漫画を読む人間の読解力も足りないかもしれない(でもそれは小説でも映画でも、どのコンテンツでもきっとそう)

ふんわりはなすよ

親との関わり方が拗れきってしまっているので、創作における「仲良しの幸せ家族」も「虐待家庭」も大抵どちらも受け付けないのだけど、そうすると一昔前のラノベでよくあった「親は海外出張中」という親を物語から排除するご都合設定は案外と居心地がいいものだったのかもしれない。あるいは、血筋を重視しないファンタジー物語など。もちろん(少年)漫画とかもね

ジャン+のコメントで「読み切りがいつも"毒家庭で苦しい自分にLGBTの友達ができて前向きに生きていけました"ばかりだな」ってのがあって、その傾向は本当に感じるし、(作者がどうかは知らないけど)家庭環境やLGBTの苦境をライトにエンタメコンテンツとして消費する傾向は、例えそれが「毒親」「LGBT」という単語の表層を浸透させるのに一役買うとしてもあんまり好きじゃねぇなぁと思う

百合の蕾が咲きつつある
良い匂いするね〜

お裾分けのお花写真
せっかくお花があるのにお花を眺める時間を取る心の余裕がなくてモダモダしてたけど、覚悟を決めることが始まりだよね〜明日はお花を眺める時間を作ろうと思います。お前は絵を描くのが趣味なんだからのんびり眺めて絵でも描いてみたらええねん

最近アジアの文化とか興味出てきたけど、だからこそ触り方に線引きとか客観性を持っていたいな〜と思う
高貴な野蛮人的なね

でもこの前、民俗学の展示行ってきてさ〜展示の方はしっかりしてるけど、私含め観る人の方の姿勢はコントロールできないわけで〜キャプションがないまま「あなたの感じるままに」だとなおのこと〜
そこに「遅れてる〜」とか「いやぁこの素朴さが良いですなぁ」とかそういう読解が私の中に生まれたらどうしようって不安にはなる
第一、民俗学は民族文化と結びついてるのに、単にお祭りの衣装や彫像なんかを飾っただけで「民俗学」の要素に触れられるもんなんかいね
民俗学の要素は別のところに感じられたけどね

博物館、「教える展示」から「感じ取ってもらう展示」が主流になりつつあると思うんだけど
知識を食べるのが好きな人間だから、キャプションとかを少なめにされるとちょっと満足度が落ちる
難しい
知識が好きなのか衒学なのかわたし

非認知コミュニケーション能力とか、めちゃ注目されてるし大事だと思うけど
現代アートとかは「何を表現したか」よりも「何を感じ取られるか」を重視した姿勢な気がするから展示と相性よさそうだけど
割と私も好き勝手解釈する作品の見方が好きだし楽しいけど

分からん…自分が「しごでき」になれない劣等感かな…?

昨年は、障害者雇用と職場のバリアフリーみたいなことをよく考えていたから、「しごできカッコイイ」よりも「みんなが自分に合った環境とやり方で自分のできることをやり、社会に参画する」みたいなことの方がよっぽど眩しく思うけどナ

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