近代的主体のモデルとして、フーコー的な規律訓練型権力が生産する主体を持ち出して、
その上でそれを批判したり逆に称揚したりする
という論の立て方は本当に飽きるほど読んだのだけど
それだともう一つの近代的主体の出発点たるデカルトがネグられると思う。懐疑的に世界について思考し行為する主体
もっと言えば、ルソーがまとめ上げた自然人的なものからの逸脱として定義される主体、というものも(僕は好きじゃないけど)考えるべきで
実際、なぜあの辺の人たちがフーコーの権力の図式だけでぜんぶ記述しようとするのかはよくわからない

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フーコーはもっと頭のいい人なんだろうけど、フーコー主義者はデカルト→カント→ヘーゲルすらネグって主体を語りがちだと思う。しかしフーコーの図式だと主体は権力の生産物でしかないとなり普通に考えたら希望がない(普通に考えないアクロバットは色々できるのでそこらへんがフーコーを読む魅力ではある)

しかしフーコーってかなり科学的理性に対する評価が厳しいんだけど、それは駄目なのでは……って本当に素朴に思う
はっきり言ってそれを権力のシステムに従属させて捉えたのは勇み足だろう、みたいなところがある

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