1930年代の末から45年まで、人を罵るのに「それでもお前は日本人か」ということが流行っていた。この問いは修辞疑問であり、その意味は「それならば日本人ではない」ということである。「それでも」の「それ」は、相手の言動であり、罵る側は、「それ」が日本人の規格に合わないと見なした。
1945年の3月31日の夜、白井健三郎(フランス文学者、当時は海軍軍司令部に勤めていた)に「きみ、それでも日本人か」といった人があった。白井は落ち着き払って答えた。
「いや、まず人間だ」
「まず人間とは何だい。ぼくたち、まず日本人じゃあないか」
「違うねえ、どこの国民でも、まず人間だよ」
この話を伝える加藤周一は、次のようにいっている(『『羊の歌』余聞』ちくま文庫)。
「人権は「まず人間に」備わるので、「まず日本人」に備わるのではない。国民の多数が「それでも日本人か」と言う代わりに「それでも人間か」と言い出すであろうときに、はじめて、憲法は活かされ、人権は尊重され、この国は平和と民主主義への確かな道を見出すだろう」
そもそも前提として、社会主義者や共産主義者と称される人物は歴史上わんさか生きていて、それぞれが異なったり重なったりする持論を展開させているわけで、そういったさまざまな思想はマルクスやエンゲルスだけのものではないのですよね。そこからして知らない人が多すぎるのがまず問題かも😅
昨夜クーリエでエーリッヒ・フロムの講義をした。大きな仕事を終え、まだ締切原稿はいくつも抱えているが、今年の山を超えたような気がする。
フロムは四十年も前に亡くなった思想家だが、旧約聖書の預言者のように現代人に警告の言葉を発しているように思える。
フロムは、合理的権威と非合理的権威を区別する。能力に由来する合理的権威と違って、非合理的権威は支配する人の力とその権威に従う人の不安が必要である。合理的な権威と違って、批判することは禁じられる。むろん、良識ある人は世の中の不正に声を上げていかなければならない。
作家。民主主義文学会。日本共産党員。日本キリスト教団信徒。市民団体事務局。
北海道生まれ。