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#ノート小説部3日執筆 お題:香水 

 
ふと、デスクから窓の外を眺める。
すこし前までの夏を彷彿とさせるような暑さは鳴りを潜め、急に下がった気温は道行く人の装いを変えさせた。

 暖かい飲み物が嬉しい季節になってきたな、とマグカップの珈琲から立ち上る湯気をぼんやり見つめる。

「こう突然寒くなると、寝る時もなに着るか迷いますよね」

 やっていた作業も一段落ついて、隣の席に声をかける。
そこには、なにやら眉間に皺を寄せてパソコンのモニターを見つめる女性。

 入社時からお世話になっているこの先輩。
何かにつけて構ってくるのだが、社内では変人扱いされており、実際奇行も多い。
 この間は仕事で詰まったから、と一時間くらいセミの抜け殻を撫でまわしていたこともあった。
 
 しかし何をそんなに真面目に仕事しているのかと、ちら、とモニターを覗く。

 赤とオレンジを基調とした明らかにSNSらしき画面。そして隣に文章作成用ソフトが別々のウィンドウで並んでいた。

——あぁ、この人サボってるわ。

 こちらが見ていることを知ってか知らずか、モニターを見つめたまま先輩からめんどくさそうな声が返って来る。

「シャネルの5番でいいんじゃないかい」

「なんですかそれ?」

適当な返事だと思って軽く聞き返すと更に言葉が返ってくる。

「調べてみるといい」

 自分も暇そうなのに、とぶつぶつ言いながらスマホで調べると、マリリン・モンローの話がすぐに出てくる。
 余程有名なのか、と思いながらさらっと内容を拾って頷く。

「……香水の話なんすね」

 遠回しに全裸で寝ろと言われた気もするが、それは置いておく。
相変わらずこちらに一瞥もくれない先輩から「あぁ」と気のない相槌をが返って来る。

「香水に縁なんてないもんで知らなかったです。先輩よく知ってましたね」

「私はたまにつけてるよ。シャネルじゃないけど」

「え、意外。どんなのか見せてくださいよ」

「意外だとか失礼なことをいうやつには見せない」

 それにそもそも普段から持ち歩いてなんかないよ、と言うとモニターから目を離し、ぐりぐりと肩を回しながらこちらを向いて笑う。

「私がつけてるのは一日くらい持つから、そんなにつけ直さないんだ」

 あんまり匂いが強すぎると迷惑だしね、と付け加える。
確かに電車内などで瓶ごと頭から被ったのかと思うほど香水の臭いをさせる人もいる。

 なるほどそういうものかと納得しながらも、ふと疑問が湧いた。

「先輩のはどんな匂いの香水なんですか?」

「“夜明けの読書”って名前のやつ。今日もつけてるよ」

「そんなのあるんですね」

 名前からは想像がつかないが一体どんな匂いだろう、と先輩の方を向いて鼻をひくつかせるがよく分からない。

「だからって嗅ぐんじゃない!デリカシーがないなぁ!他でやったら本当に嫌われるぞ!?」

「だって気になるじゃないですか」

「こういうのはふとした時に少し香るからいいんだよ」

まったく、と大きく身を引かれる。一応の羞恥心はあるらしい。

「そういう匂いが好きなんですか?」

「そうだねぇ……好きだけど嫌いかな」

わけがわからない。

「じゃあなんでつけてるんですか」

「そうだねぇ……自戒のためかな」

先輩は少し俯く。垂れた前髪が影を作る。その奥で暗い瞳がゆっくりと細められる。

「むかし好きだったひとのイメージに似ててね。朝焼けの似合う人だったよ」

——意外だった。

この人が他人を好きになることがあるのか、ということもだが。
さっぱりしていそうなこの人がそういう感情を今も引きずっている事に驚く。

 俺の顔を見ると、考えが表情に出ていたのだろうか。見透かしたように先輩は続ける。

「恋愛感情ではなくて、友人になりたいとか憧れとかそういう感情だったけどね」

「先輩がそういう話をするのは珍しいですね」

 そう言って続きを促す俺に、先輩は「面白い話じゃあないよ」と苦笑しながら続ける。

「そうだな、とても綺麗で良い文章を書く人だったし、考え方もきっちりした人だった」

 本当に少しの間関わっただけだったんだけどね。と笑いながら画面を見つめる。

「自分の考えに絶対的な自身を持ってるように見えて、なのに他人の顔色が気になってしかないように見えてね」

「そういう人間臭い所に惹かれたんだけどね。ま、私が嫌になってしまったのさ、身勝手にもね」
 
 自嘲するように言うとモニターから目を離してこちらを見る。

「私は、もっとその人の事を知りたかったし、知れば良かったのかもしれないと思うよ。

らしくないかい?と聞かれて答えに詰まる。

「ま、とにかく。この香水は私のひどく個人的な感傷という事さ」

「……先輩らしくはないですね」

「正直だね」

「先輩の個人的な話を聞くのは初めてなので」

「……そうだね。私もあまりこういう話はしないからね」

する友人がいないないんだけどね!と渇いた笑いをする先輩を尻目に、ざわつく自分の心に気づく。

きっと、俺も知りたいんだ。この不思議なことばかりする先輩のことを。

ボンヤリと先輩を見つめていると、視線に気づいた先輩がふざけたように言う。

「なんだい?私を好きにでもなったかい?」

「興味はあります」

「は?」

 予想外の返答だったのかへらへらと笑っていた先輩が固まる。
俺も少し考えた後に、告白ともとられかねないことに気づいて焦って続ける。

「あー……。恋愛とかそういう話じゃなく、興味が」

「君の場合は珍獣を見るのと同じ扱いじゃないかい?」

「あぁ、確かに。そうかもしれないですね」

やっぱり失礼じゃないか、と呆れた顔をする先輩に苦笑してみせる。

 だが本音を言えば、自分でもこの興味がどういう感情なのかは分からない。
ただ。垣間見えた孤独と、この人の言うところの“感傷”をもっと知りたいと思ってしまった。

「……ちなみにその香水ってどこで買えるんですか?」

「ネットでも注文できるけど……買うのかい?」

「気になるんで」

先輩は片眉を上げて少し考えると、やがて諦めたように溜め息を吐いた。

「今度小さいボトルに入れてくるから、試してからにするといい」

それからでも遅くないだろ、という先輩の言葉に頷く。

「本当に君は変なやつだな」

言葉とは裏腹に、その声色は優しい。
伸びをしながら立ち上がる先輩からふわり、と少し甘さの混じった木のような香り。

——自分の心が、じく、と動くのを感じた。

 それは、胸が痛むような。心地よく甘いような。相反する2つが混ざり合ったような感覚。

 匂いが記憶を呼び起こすものだというのなら。この上手く表現できない気持ちも覚えておきたい。

 この香りが苦くて甘い今の気持ちに結びついて、また思い出せるように。

「どうかしたのかい?」

 先輩は不思議そうにこちらを見たので「いえ、なんでも」と答えて目を逸らす。

——先輩が香水をつけ続ける気持ちが少しだけ理解できた気がした。

#ノート小説部3日執筆  香水の記憶 

香水の記憶

 その香りは死と結びついている。娘の死体を見た時、したのがその香りだった。
 香りをあらわす言葉を私はあまり多く持ってはいないが、清楚な華のような香りだ。娘の部屋にはシンプルな香水瓶が残されていて、ああ、あの娘らしいなとしみじみ思ったものだ。いい子だったと思う。それなりに反抗期もあったが、優しくてかわいい子だった。そんな人並みな言葉しか出てこなくて、私はそっと恥ずかしく思った。
 私が娘のなにを知っていたというのだろう。出かける時にはあの香水を少し手首につける、そんなことしか思い出せない。笑った顔も、怒った顔も、泣いている顔も、霧の向こうにかき消えてしまったかのようだ。写真を見てときどき思い出す彼女の声は、本当にそういう声だっただろうか、もう確信が持てなくなっている。

 そんなとき、電車でその香りがした。隣の若い女の子からだった。その女の子は娘とは似ていなかったが、一瞬、娘を幻視した。女の子は私の様子を見て、奇妙そうにみじろぎをする。
「ごめんなさいね、あの……」
 どう言えばいいのだろう。不快にさせるつもりはなかったのだが、死んだ娘の好んでいた香りだと言えば、もっと不愉快にさせるのではなかろうか。
「その香水……お好きなんですか?」
「え。あ、臭いとか……?」
 私は慌てて手を振った。
「いえ! そうじゃなくて……娘、が好きだった香りなもので……。いい香り、ですよね」
 私が蒸発して中身がほとんどなくなった香水瓶を見せると、彼女はちょっと不思議そうな顔になってから、ああ、と頷いた。
「わたしも好きなんです。母がつけていたので」
「そう……なんですね」
「この香りで思い出すんです。楽しかったり、優しかったり、そういう記憶を」
 そうだ。私もこの香りで娘を思い出している。
「ええと、娘さん? にとっても大事な香りだったんでしょうね」
 娘の死は一瞬のことで、痛くなかっただろうと医者は言っていた。それならいい。あの香水は、私にとって娘との楽しいお出かけの記憶だ。彼女にとってはどうだっただろうか。たぶん、娘にとってもいい記憶と結びついていたはずだ。あの香りに包まれて死んだのなら、たくさんのしあわせな記憶を思い出して逝けたのなら、きっと悪くない人生だった。そう思うと、急に涙が溢れてきた。
「ごめんなさい、ありがとうね。ありがとう……」
 これは私の、しあわせな思い出の残り香だ。

#ノート小説部3日執筆 魔女の香水 

魔女の香水

 森と街のあいだに、その小屋はあった。近づくと、甘いような苦いような複雑な香りが漂ってくる。
 それは魔女の家だった。魔女は黒いローブを着て、毎日森へと入る。花や果実、樹液をわけてもらうのだ。
 街の人は、彼女を「香りの魔女」と呼んでいた。

 さて、その魔女の小屋の扉を叩く音がした。今日の客は若い女性だ。目の下のくまがやけに目立つ。
「香りの魔女さん、ですよね」
「そうよばれていますね。ご用件は?」
「香りを作ってもらいたくて……」
「なるほど。まず、おはいりください」
 魔女はにこにこと奥に通した。なかは古びていたが掃除が行き届いていて、ほこりひとつない。たくさんの蒸留釜や絞り器が並んでいた。どう使うのか女性にはさっぱりわからない。ただ、混ざり合った薬のような香りが鼻をくすぐった。
 女性は勧められた椅子に座り、不安げに息をつく。
「はい、代金はパンと干し肉1週間分。何の香りをお望みで?」
「わたし、彼とケンカして……別れちゃったんです。やりなおせる香りをください!」

 魔女は奥からたくさんの瓶を出してきた。大きいもの、小さいもの、多くは茶色で蓋がついていた。
「失礼ながら、妊娠はされてませんね」
「は、はい……」
「そうですか。なかには刺激の強い香りもありますので」
 そう言って魔女がひとつの小瓶を女性に向ける。
「こっち、嗅いでみて。鼻をつけないで、あおぐようにしてくださいね」
 女性が手であおいでみると、ふわっと強い香りがする。すっきりと爽やかな草の香り……ちょっと薬っぽいかも。
「嫌いじゃなかったら、これで作ります」
「嫌いでは……ないかな」
 魔女はガラス管で中の液体を吸い、透明なコップに入れる。今度は違う瓶から少しとってそのコップへ。すっきりだが、少し苦味のある果実の香りが混じった。いくつかを合わせ、最後に少量ずつ入れたのは、ちょっとだけ甘くてスパイシーな木のような香りだった。アルコールと蒸留水を注いでよく混ぜる。

 それを装飾のある瓶に詰めた魔女は、きゅっと蓋をして女性に渡した。
「この香水を彼に1滴振りかければ、きっとやりなおせますよ」
「1滴って……どうやって?」
「さあ? 私にできるのはやりなおせる香りを作るだけです。香りはあなたの背中を押すものですから」

 彼女はドキドキとして彼の家の前に立つ。この香水を彼にかけなければならない。でも、どうやって?
「あ……!」
 そうして声をかけられず待っていると、背後から声がかかった。彼だった。慌てて逃げようとするのと呼び止められる。
「あ……」
「待って! 待ってくれ!」
 呼び止めたものの、男性は迷っている。女性のほうもどうしたらいいかわからない。
「ええと……これ、プレゼントなんだ」
 男性の手には、女性の持つものと少し違う香水瓶があった。彼は自分の手に少し取ると、そっと彼女の手をとった。ふんわりとした優しい花の香りが、いらいらとしていた心を落ち着かせる。男性は深く呼吸をし、切り出した。
「ごめん。ぼくにも悪いところがあったのに……」
「わたしも、ごめんなさい。かっとなっちゃって……」
 女性も自分の香水を1滴、二人の手に落とした。さわやかでちょっと苦い、甘い花のような香りで心が晴々としてくる。
「やっぱりあなたのことが好きよ」
「うん、ぼくも、君じゃなきゃだめみたいだ」

 魔女は歌いながら2週間分のパンと干し肉の整理をする。
「おちついて話し合う香りはラベンダー、カモミール、ベルガモットにオレンジ、メリッサ……やりなおす香りはローズマリー、グレープフルーツにレモン、ゼラニウム、ジュニパーとサイプレスを少し。香りは背中を押すだけですよ。うまく使ってやってくださいな」

#ノート小説部3日執筆 『未練もなく』(お題:香水) 

「あげるよ」
こちらを振り向きもせずに、Sは言った。
「ねこを飼うものだから、もうつけていられないのでね」
君、その匂いが好きなんだろ。肩を揺らしながら笑うSの手の内にはやわらかな獣が、未だ己の輪郭を得ていないような顔で尾を揺らしている。
「そうだったかな。覚えが無い」
私はテーブルに置かれた香水瓶を手に取り、まじまじと眺めた。黒い羽根を身に纏った黒い香水瓶は、中身を半分以上残している。それを揺らしながら呟くと、Sはあれ、と声を上げた。
「前につけたときに言っていたじゃないか、良い匂いだって」
「――……ずいぶんと前のことを覚えているね。飲みに行った時のこと?」
「そう、君はあの日とても酔っていた。顔を真っ赤にして楽しそうに言っていたよ、良い匂いがするねって」
相変わらずSはこちらを向かない。股ぐらの上で眠り込んでしまった小さなねこの耳を指でぴろぴろと弄っている。
「煙草もやめるよ」
「そう。健康になれるね」
「彼女の肺を真っ黒にするわけにはいかないから」
私はふと、ベッドの枕元を見た。煙草の箱。これもつや消しの黒いパッケージだった。その上に緑色の使い捨てライターが乗せられて、自己主張をしている。私は腕を伸ばした。かろうじて届く位置にあったそれに触れ、たぐり寄せ、握りしめた。
「君の寝たばこで火事になる心配がなくなるわけだ。灰皿は捨てたの?」
「うん。ちょうど明日がガラスの日だったから」
「もったいない」
「あれ、いった? 君って煙草吸ってたっけ?」
「いいや?」
ただデザインがよかったなって。あれは確か、Sがここに引っ越してきた時、近所の雑貨屋で見つけたものだった。ヘビースモーカーであるSに半分冗談、半分本気でこれなんかどうと見せてみれば、いいんじゃないと無造作にカートに入れられた物だった。
「あー、たしかに。でももう汚れてたし、いいんだ」
Sの手は幼いねこを撫でている。まっしろなねこ、やわらかなねこ、ちいさなねこ、Sの愛を一身に受けてなお、ぐっすりと眠る不遜なねこ。
「君が子猫を貰ってくるだなんて、思わなかった」
「親戚の家に寄ってみたら、軒下で生まれたのをおばさんが捕まえたってね。こいつだけ真っ白。他は真っ黒なのに、不思議だねえ、お前は」
くすくすとSが笑う。かかる吐息がくすぐったいのか、ねこは眠ったまま、耳をぷりぷりと動かしている。

そこそこの時間でSの一室を辞したその足で、アパートのゴミ捨て場に立ち寄った。明日回収されるガラスどもが袋の中、街灯の青白い光に照らされて佇んでいる。ほとんどは酒瓶だった。いっそ酒瓶しかない。あいつは断酒もするのかと思わず笑い、そして躊躇した。
ごみとされたそれを漁る浅ましさと、その中からあれを拾い上げようとする未練がましさが、私の顔をほんの少しだけ熱くさせる。一歩、離れる。鞄の中で香水瓶が揺れるのを感じた。一歩、二歩。
固く結ばれた袋の口をほどく。破ると言ったほうがよい。酒瓶が擦れあい、悲鳴を上げる。きゃらきゃらきん、ぱき、ころころ。酒の抜け殻の笑い声に頭が冷えていく。何をしているんだろう。
酒瓶をちょっと避けたところで、それはあった。酒の抜け殻は、透明で美しいがそれは灰がこびりついて、汚らしい。引っ掴む。濡れている。きっと酒だろう。

自室に帰ってすぐ、汚れたそれをシンクで洗った。黒い水が流れていく。匂いが酷い。古くなったスポンジを犠牲にして、力任せに洗う。幾ばくかの時間を無駄にして洗ったそれは新品とはいかなくとも、綺麗になった。水気を拭いて、テーブルに置いた。鞄の中の香水瓶も、盗み出した煙草も。私はそれを見下ろして、むなしくなっていた。
「捨てられたんだ、君たち」
物に向かって残酷なことを言う。これが人間だとか、ねこだとか、犬だとか、ハリネズミだとかならば、お前はひどいヤツだと誹られるに違いない。今、目の前で黙してるのは、香水と煙草と灰皿。いらなくなったSの私物。だから赦されている。
私は香水瓶を掴んだ、黒い羽根のせいで些か持ちにくい。蓋を開け、プッシュした。霧が噴き出す。キャラメルに似た甘ったるい匂いが私に降りかかった。もう一度吹きかけた。頭頂が濡れる。煙草を引っ掴み、箱を開ける。一本、抜き出した。連れ去ったライターで火を点ける。赤熱した先端から、ほそくほそく、白い煙が立ちのぼる。奇妙なメンソールの味が、舌を痺れさせていく。
今しがた洗った灰皿に灰を落とす。ここで私はようやく、鬱々とした気持ちから抜け出せた。臭い。香水と煙草の匂いが混じり合って甘いような苦いような、多国籍雑貨屋で嗅ぐような匂いに私は包まれている。愛ではなく、自虐に包まれている。
「ふふ、ふ……へへ……」
私は肩を揺らして笑った。泣いていないことが救いだった。あんなやつの為に泣いてたまるか、人が選んでやった灰皿を捨てやがって。
引き取ってやるので感謝しなさい。香水も、煙草も、灰皿も。
通知音。

――見て。へそてん。
#ノート小説部3日執筆

#ノート小説部3日執筆 お題:【香水】 

※自創作の掌編です。初見バイバイ感があります。雰囲気でお楽しみください。

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『薔薇と鉄錆』

 自分の知る限り、吸血鬼ロクスブルギーが身だしなみのための特別な何かを用意しているのは見たことが無かった。無頓着だと言いたいわけではない。特段こだわりがあるようには見えない、という意味だ。だから身体を洗う石鹸も、服を洗う洗剤も、全てこの家に元々あるものを一緒に使っている。しかし、彼がここへ住まい始めてから、この家のものではない香りがするのだ。
 その微かな花の香りは確かに、ロクスブルギーから感じられた。ここへ来るときには私物だってさして持ってはいなかったはずだが、香水でも使っているのだろうか? 些細な疑問ではあったが、一度それを意識すると気になって仕方がなかった。
「……で、君はさっきから何をしているんだ」
 その香りの正体が気になったのと暇だったのとで、無心になってロクスブルギーの長い髪を櫛で梳かしていると、彼が半眼になって問いかけてきた。気持ちは分かる。おもむろに隣に座ってきて無言で髪を梳かしてくる同居人の姿は、まあまあ不審だろう。いかにこの貴い吸血鬼が身の回りを世話をされるのが好きだと言っても、意図が見えないまま好き放題に自分の髪に触れられるのは看過できなかったらしい。説明をせよと言いたげなロクスブルギーに、まずは悪意はないということを伝えなくてはならない。
「いや、香水の香りが気になって」
「香水……?」
「違うのか? ずっと花の香りがするが……」
 合点がいかなそうに首を傾げる、吸血鬼の長い髪を一房持ち上げて顔に近付けると、やはりその香りがする。この香りの元が彼であることは間違いがなかった。花の香りの奥に、金属のような匂いが混じっているような――それは孤高に生きてきたこのひとに良く似合う香りだった。この美しい顔に、どんな化粧も施したとて余分になり得るが、このさりげない花の香りは、ほどよく吸血鬼を飾り立てている。もしもこの香水を調香した職人がここにいたら、称賛の言葉を贈りたいほどだ。
「……ああ、なるほど」
 ややあってから、ロクスブルギーはそう言って自らの手の甲に牙を突き立てた。噛み痕から血が滲み出てきて盛り上がり、彼はそのまま、その手をこちらに近付けた。
「この香りのことではないかな」
 促されるまま香りを嗅ぐと、その深い赤色の血からは先程よりも強く、微かに鉄錆の混じった花のような、あの香りがした。
「血の、匂い?」
「僕からすると、気にも留めないものだから気が付かなかった」
 ロクスブルギーは手を引っ込めて、反対の手の指で噛み痕を撫でる。するとはじめから何もなかったかのように、跡形もなくその傷は消え去った。花の香りだけが、あたりに漂っている。
「この血が何百年も身体中を満たしているから、匂いが漏れ出ているんだろう。気に障ったかな?」
「まさか。どんなセンスの良い店で買ったのかと思ったくらいだよ」
「そう」
 目を細めてそう言ったあと、吸血鬼はこちらの手を取った。白い指が手の甲の上を滑ると、先程拭い取った血で何かの図形を描き始めた。掠れながら描きあがったそれは、薔薇の花に似ていた。
「できた。……なかなか良いセンスだ、君も」
 心なしか満足そうに――ロクスブルギーは微笑んだ。

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「カウフマンさん、最近は香水をしてるのね」
「は?」
 数日後、定時報告のために教会へ向かうと、資料を受け取ったシスターがそう言った。確かに、時々――何かしらの催しがある時には――することもあるが、最近は特に覚えがなかった。こちらが不可解そうな顔をしていると、いつの間にか周りに数名のシスターが近寄ってきていた。
「あらほんと。いい香り」
「上品な感じね。ちょっと意外」
「今度はどこの人を口説くつもり?」
「人聞きの悪いことを言うな。ほら、散れ散れ!」
 笑いながら、彼女らは再び各々の仕事に戻っていった。シスターというと、世間の人たちはとてもお堅い印象を抱いているようだが、街角を歩いている娘と何ら変わらない。いつだっておしゃれと恋の話が気になっているのだ。
 ところで――
「香水……?」
 人通りの少ない廊下で立ち止まり、自分の身体のそこかしこを嗅いでみると、覚えのある香りがした。吸血鬼の身体を満たしている血の、あの香りだ。シスターが言うには、最近この香りがずっとしていたらしい。――不意に、満足そうに微笑む彼の顔が脳裏に浮かんだ。
 ――なかなかいいセンスだよ。
「……そういうことか……」
 手の甲を顔に近付けると、未だに一際鮮明に――香しい、薔薇と鉄錆の香りがしていた。

#ノート小説部3日執筆 「夜色のキャンディ」 お題:サルミアッキ ※遅刻申し訳ありません! 

音希の手元には今、黒と赤の毒々しい色彩の袋に入ったキャンディがある。
先日、「地球物産展」なる催事で買い求めた北欧原産の菓子で、その名を「サルミアッキ」という。
世界一不味いだのなんだのと評判だが、音希としては実はそんなに嫌いではないのであった。
「……いやまぁ、決して美味しいもんでもないんだけどね」
口に含んだ時のほのかな塩味と、次いで広がるハーブの風味。
その奥にほのかに感じるリコリスの甘み。
最初はその微妙な不協和音に戸惑いもしたが、作業中の眠気覚ましには最適であることに気づいて以来、見かけてはちょくちょく買うようになったのである。
難点は輸入食品店でもめったに見かけないことで、北欧物産展でもない限りは割高なインターネット通販に頼るしかないことなのだが。
そして火星ではその通販の販路すら絶たれていることだが。
そのサルミアッキを火星で見かけたとあれば、思わず手に取ってしまうというものだろう。
しかもただのサルミアッキではない。スーパーサルミアッキなのだ。
何がどうスーパーなのかはわからないが。
袋を開けて傾けると、円盤状の真っ黒な物体が転がり出てきた。
よくサルミアッキのことを「タイヤ味」と評する者がいるのでタイヤ柄でもしているのかと思いきや、よく見ると表面はサルミアッキのパッケージでお馴染みのダイヤ柄であった。
「タイヤちゃうんか」
ついそんなことをひとりごちながらそれを口に入れる。
舌の上に独特の塩味とリコリス特有の甘みが広がった。
この風味をして「不味い」と評されがちなのだろうが、これこそがサルミアッキの醍醐味というものだろう。
そして一拍遅れてやってきたのは、ミントの清涼感であった。
記憶の中のサルミアッキにミント感はなかった気がするから、もしかするとスーパーサルミアッキがスーパーたる所以はこのミントフレーバーなのだろうか。
だとしたらこれほど作業のお伴として最適なキャンディもあるまい。
通常のサルミアッキより平たいだけあって噛みやすくなっているそれは、噛めば噛むほどミントの刺激が広がって目が覚める思いだ。
いけない、これはつい嚙み砕いてしまう。
そう思った音希はあわてて黒い円盤をいくつかまとめて口の中に放り込んだ。
これでしばらくは安泰である。
この目の覚める味に救われて、音希は深夜にひとり、作業を続ける。
煙草にもカフェインにも頼らず作業をする夜があってもいい。
夜色のキャンディは、そのことを音希に教えてくれたのだった。

おわり

遅刻、申し訳ありません!【#ノート小説部3日執筆 】「オーロラ、犬の遠吠え、そしてサルミアッキ」(お題:サルミアッキ) 

***

 そう遠くない未来。ヘルシンキ郊外にて。

 サルミアッキを口に含むと、犬たちの声がよみがえる。

 わたしはいま、トゥースラ湖のほとり、すこしだけその輪郭が湖面に張り出した場所に立っている。水面をわたる風をいちばん感じられる、わたしだけのちいさなちいさな
岬(ニエミ)。湖畔のクーシ(オウシュウトウヒ)の細い葉は雪に覆われ、まるで粉糖をまぶしたようだ。
 
 吐く息は白く、サルミアッキ独特の風味が鼻に抜ける。他国の人が「タイヤが焼けたような味」と表現するらしきこの最初の味わいを、なんといえばよいのだろう。ただ、わたしは、これほど口いっぱいに広がる強い風味を持つ食べ物を、サルミアッキのほかに知らない。

 わたしが最初にこの飴を食べたのは、いつだったろう。それは判然としないけれど――思い出すのは、雪と氷に閉ざされ、日照時間が極端に短くなる故郷の冬だ。

「ほら、これを」

 電池式のランタンを雪にうずめるように置いて、祖父が夜闇よりも黒い飴をつまんで渡してくれる。当然、ふたりとも手袋をしていて、わたしはアウトドアブランドの、祖父はずいぶんと黒ずんだトナカイの革のものだ。

 文字通り、吐息も凍り付く気温の中、わたしはできるだけ口をすぼめて飴を口に入れる。痛いほどの冷気と、いつに変わらぬ独特の風味。続いての塩気を舌に感じると、不思議な安堵感がやってくる。それを感じるたび、わたしは「人類の祖先は、遠い昔、海からやってきたのです」という教師のことばを思い出した。最後は、薬くさくて、なのに爽やかなリコリスの風味。祖父にすすめられるまま、ふたつ、みっつと食べたとき――。夜空にヴェールがたなびく。

オーロラ(レヴォントゥレット)

祖父がしゃがれた声で言う。遠くで、犬の遠吠えがする。来る日も来る日も観光用の犬ぞりをひいている、あの犬たち。野太い喉を天に向けての咆哮は、どこまでも力強い。

 肌を突きさす清冽な空気、オーロラ、犬の遠吠え、そしてサルミアッキ。それらはひとつになって、わたしの中にある。だから、わたしはときどき、冬のトゥースラ湖に足を運ぶ。首都・ヘルシンキにほど近く、森を感じられる場所だから。でも、足りない。もっと、もっと、もっと。空気は冷たく、澄んで、張りつめていなければならない。もっと、もっと、もっと。サルミアッキのリコリスの風味が、焦燥をかきたてる。

 黒い飴が口の中ですっかり溶けたころ、わたしは湖をあとにする。じくじくと湿った湖畔の土を踏みしめて舗装路を目指しながら、わたしは故郷を思う。いつしか大地は凍てつかなくなり、降雪量は減り続けた。祖父が「ちょうどいい頃合いさ」と林業を畳み、ヘルシンキへ出ることを決めたのは、冬がまだ続いているはずの二月に、こんなふうにぬかるんだ大地を踏んだころだった。

 吐く息は白く、ミトン型の毛糸の手袋の中で、指は凍てついている。でも、もっと、もっと、もっと。これでは足りない。わたしはもうひとつ、サルミアッキを口に放り込む。その風味を感じながら、失われてしまった故郷の冬を、よみがえらせようとする。もっと、もっと、もっと。リコリスの風味が消えるころ、舌の上に残るのは苦みだけ。わたしはそれを、冷えた空気とともに飲み下す。



***

※画像化には
#文庫ページメーカー を使用させていただきました

#ノート小説部3日執筆 「日常とは、甘く苦いもの。」 

今日も事務局は平和だ。少なくともこの部屋内だけは。そしてこういうときは、だいたい仕事がやってくる。
こんな風に。
「――ごめんね、アイくん。今空いてるかな」
事務局長の
ブルー・ラグーン(Blue_Lagoon)さんだ。書類の束と封筒とファイルを、これでもかと小脇に抱えている。

「空いてます。書類整備ですか?」
落ちそうな書類を支える。書類整備はよくある仕事だ。
「ああ、いや、お使いに行ってほしいんだ。なぁに、大したことはない。この書類を
コスケンコルヴァ(Koskenkorva)さんに持っていってほしいだけさ」
書類の配送も、よくある仕事だ。郵便に行くよりも直接渡す方が安上がりだし、なにより早いからだ。

「なぁに、お使い?がんばれ〜」
先輩はやる気がなさそうだ。長い尻尾を引きずって、眠そうにデスクについた。
「あ、コスケじーちゃんの所に行くなら、これ持って行きな。あの人の好物なんだよ」
そう言われて手渡されたのは、白黒のひし形格子模様の箱。ロゴには『SALMIAKKI』と大々的に書かれている。
「……これ例のアレじゃないですか」
「そ、“世界一マズい”でおなじみの飴さん」
この世界にも流通してるのか、このお菓子。
転移前の世界(にっぽん)だとヒドい扱いだったが、この世界(しんおうのくに)でもだいたい同じような感じなのだろう。

「アイちゃんの分もあるよ。ほら」
もう一箱渡された。食べたことはないが、いろいろと悪評高いせいで手出しする気になれない。
「ま、どの道食わせてくるだろうから。今のうちに慣れとくといいよ」
すごいことを言われている気がする。

配達の道すがら、例の飴を開封してみる。黒くないリコリス飴は食べたことがあるし、大丈夫なはずだ。
ひと粒取ると、パッケージの柄と似たような、ひし形の黒い飴が出てきた。
早速口に含んでみる。
「う〜ん……うん?」
エグめの薬品臭はするが、塩っぱさとほんのり甘さがある。塩気がけっこう強いが、塩飴的なものと割り切ればいける。
飴なので咀嚼すると砕けるかと思ったが、グミのような弾力がある。タイヤ呼ばわりされてたのはこれが原因か。まあ悪くはない。
……ただ、後味がだいぶ長いのは、私にとってマイナス点かもしれない。刺激臭というか、鼻につくヒドい臭いがずっと残る。

総評して、まあいいんじゃないか。という具合だ。
私はそうではないが、これを好む人がいるのも頷ける。

――
「リムディズ事務局です。書類のお届けに参りました」
「はい、はい。よく来ましたねぇ。さ、あがってくださいな」
人当たりの良さそうなおじさまだ。うちと関わりのある方はヤバい奴が多いので助かった。まあ見かけによらない可能性もあるが。
「今日は車で?」
「いえ、徒歩です」
「そう、よかった」
何が良いのかは分からないが。

応接室かどこかに通されるかと思ったが、まさか縁側に座らされるとは思わなかった。
日本の原風景(日本ではないが)という感じの庭園が広がっていた。それほど広い敷地ではないはずだが、庭には池もあり、石灯籠のようなものもある。
「さ、さ、お座りなさい。美味しいお酒も持ってきますからなぁ」
こんな昼間からか。まあ、今日の仕事はほぼ無いし、問題ないだろう。

しばらくすると、おじさまが酒瓶をいくつか持ってきた。
「さ、さ、どうぞどうぞ。ワシの名前にもなってる酒でございまして」
ほぼ透明のモノから、色鮮やかなモノ、なんかドス黒いモノまである。
コスケンコルヴァ。北欧の蒸留酒だ。フレーバーが多いとは聞いていたが、ここまで多いとは。

おじさまは、慣れた手付きで黒いヤツをグラスに開けた。どこか嗅ぎなじみがあるような香りがする。
「あの、そのフレーバーってもしかして……」
「えぇ、サルミアッキ味です」
やっぱり。途中で食べたあの飴のような薬品臭がする。

「そうだ。これ、うちの先輩からです」
例の飴を渡す。自分が開けた方じゃないことを再三確認してから。
「ん?ああ。
トーラ(Yellow_Rattler)くんからかな。いつも世話になってるからねぇ」
おじさまは箱を受け取ると、先程グラスに開けた黒い酒に、黒い飴を何粒か放り込んだ。
「どうです。キミも飲みますか。サルミアッキ」
別に飲む必要は無いが、この機会を逃すと一生この好奇心を埋めることなく終わりそうだ。
「いただきます」

酒の方のサルミアッキはというと、意外と悪くない。
飴のように、やはりエグい香りと塩辛さはあるものの、流体として摂取するからか、だいぶマシだ。
アブサンに、砂糖と塩をふんだんにブチ込んだらこんな感じだろう。
飲み込んだ後のエグみの強い匂いは……、他の味で流せば問題ない。
「はは、よく飲みますなぁ」
おじさまは笑っている。まあ、酒を酒で流し込んだら、そうも思うだろう。

用事を完全に終わらせ、おじさまの屋敷を出たときには、だいぶアルコールが脳を灼いていた。蒸留酒をストレートで飲んだら、そうもなる。アルコールに強いわけではないから、なおのこと。
このまま帰るとマズい。というか、帰れるかさえ分からない。壁沿いに歩くのが精一杯で、大通りに出たら確実にお陀仏になる。

「やっほー、アイちゃん。迎えに来たぜ」
先輩の声がする。たぶん幻聴だろう。あの不真面目な先輩が、わざわざ来るとは思えない。
ちょっと進んで、少しずつ歩いていこう。
「おーい。事務局はそっちじゃないぞー」
まだ声が聞こえる。幻聴じゃないかもしれない。
一度周囲を確認するが、さっき来た道だ。問題ない。
「しょーがない。引きずって帰るか」
身体の制御がつかなくなり、視界が宙に浮く。

どうやら先輩に背負われているらしい。
「せんぱぁい、にゃんでいるんれすか」
肉体制御以前に、呂律が死んでいる。ここまで酒が回っているとは思わなかった。
「そらお前、コスケじーちゃんから『若造がべらぼうに飲みおる。このままじゃ帰れなくなるぞ』って連絡来ちゃったんだもん」
どうやらいつの間にか連絡されていたらしい。

「どう、美味かった?サルミアッキの酒」
おいひくないれす(美味しくないです)。きらいじゃないれふけろ(嫌いじゃないですけど)……」
「そう?まあ好みによるだろうし、仕方ないさ」
他愛もない会話をしながら、なんとか事務局に向かう。

目が覚めたときには事務局の長椅子に転がされていたが、それは、まあ、別の話。

#ノート小説部3日執筆 お題「サルミアッキ」 タイトル;好意は嬉しいけれど 

目の前には上司がフィンランドのお土産に、と買ってきた「サルミアッキ」という名称の飴が置いてあった。
 それを休憩時間に部署の人間一同でぐるりと囲み、さて誰が一番にそれを食べるか、という腹の探り合いをしている。
 もっとなにか他にもあっただろうという気配が各々からひしひしと伝わってきていた。
 だが、上司に悪気があった訳では無いというのは良く分かる。
 あのほわほわした部下にも、上層部にも愛されゆるふわなあの上司にそんな悪意があるとは思わない。
 大方その国で子供達や大人の間でも親しまれているお菓子、そしてそれなりに数が有る為みんなで分け合いやすい、持ち帰るのにもかさばらないという理由で買ってきたのだろう。
 今は色々と厳しい時代で、お土産を買うにしてもあまり高価なものなどは会社からNGが出やすくて、結果としてこの手の飴とかグミとかチョコレートなどを上司は良くお土産として買って帰ってくれていた。
 だから、今回もその流れでのお土産なのだろう。
 しかし天然でぽわぽわとしている上司は男という事も有ってかあまりお菓子について詳しくない。
 いや、男だからと決めつけは良くない。ただ、甘い物を嗜まない人間だからだろう。
 海外のお菓子についてなら尚更だ。
「みんな、どうした? 食べないのか?」
 じりじりとサルミアッキを中心に輪を作り、拮抗状態が続いている中、突然後ろからのほほんとした上司の声が聞こえてきた。
 その声にみな一様に愛想笑いを浮かべ、口々に「いやぁ、今から食べようかと……」「美味しそうだなぁ~!」などと一ミリも思っていないだろう白々しい言葉をほとんど棒読みで上司に向けて伝える。
 その皆の様子にひょいっと上司は眉を持ち上げると、俺達の輪の中に入って来た。
「このお菓子はね。フィンランドの人たちの間では伝統的なお菓子だって聞いて。小さな頃から慣れ親しんだとても懐かしい味らしいよ。あちらの人たちは皆親切で、こぞってこのお菓子を勧めてくれたんだ」
 まだ開封さえもされていない飴が入った箱を上司はその手に取り、少し前に行った海外出張で出会った優しい人たちの事を思い浮べているのかその瞳が懐かしそうに細められ、目じりに皺がいくつも寄る。
 その横顔を見ていると、あの日本人の口には合わない、と言われるこの飴を食べないのも失礼に当たる気がして、それぞれ部署の皆で目配せをしあう。
 慣れればこの独特な味が癖になり、禁断症状さえも出るフィンランドの方もいるそうだという噂を耳にした事がある。
 ならば俺達だって舐め続ければ禁断症状とまではいかなくても、美味しいと感じたり、味に慣れて平気になったりするのではないか、そんな事を目配せし合う視線の中に込めて語らい合う。
 と、そんな俺達の緊張状態を分かってか分かっていないのか、上司はにこにこしながらその飴の箱を開け、丁寧にティッシュをデスクの上に敷くと、そこへザラザラッと人数分の飴を取り出した。
「……ぁ」
 誰かが小さく諦めの様な声を出した。
 そしてにこにこと笑いながら上司はその声には気が付かずに俺達を振り返ると、さぁどうぞ、と言わんばかりにデスクの上に出されたサルミアッキを一粒取ると俺の手のひらの上に乗せた。
「君はきっと気に入ると思うよ」
 悪意のない純粋な好意だけの笑みが俺を射る。
 そんな顔を上司にされては、秘儀! 後でゆっくりいただきます! という技も使えず、手のひらの上に置かれたまるで車のタイヤの様な黒々として艶のない飴を見つめる。見た目はどこからどう見ても飴には見えない。
 上司がいったい何を根拠に俺がこの飴を気に入ると思っているのかはさっぱりわからなかったが、上司に微かに口の端が引き攣った微笑みを返しその飴を口元へとゆっくりと持って行く。
 ふわりと薬っぽい匂いが鼻孔をくすぐり、これ、飴じゃねぇぞ?! と心の中の俺が叫ぶ。
 飴と言えばやはり甘い味と匂いを連想するが、このサルミアッキは噂通り飴への固定観念を覆してくる匂いをしていた。
 俺がそれを口にするのを躊躇しているその横顔に、相変わらず上司はにこにこと笑みを浮かべたまま視線を注いでいて、その視線がどうにも早く食べなさいと促している様に感じられる。
 俺、上司になにかしたっけな……。もし何かを仕出かしていたのならごめんなさい。許してください。もうしません。そんな全く身に覚えのない反省と謝罪を心の中で繰り返しながら、俺は意を決してその光さえも吸い込む様な真っ黒な塊を口の中へと放り込んだ。
 途端に周りからどよめきと、賞賛の声が上がり、上司も何故か嬉しそうな顔をして拍手をしている。
 やっぱり俺は上司になにかしたのかもしれない……。
 そんな事を思っていたら、数舜遅れて口の中に放り込んだ飴の味がじわりと舌の上に広がり、俺は思わず口を押さえ吐き出しそうになるのを必死になって堪える。
 強い塩味と、アンモニア臭。そして微かな薬の様な甘み……フィンランドの方達やこの飴が好きな人たちには悪いが、これは断じて飴ではないっ!!!!!
 そう俺の中の本能が咆哮した。
「美味しいかい?」
 上司がにこにこと笑いながら俺の横に立ち、俺の顔面が白くなったり赤くなったり、はたまた青くなったりする様を不思議そうな面持ちで見ながら、そんな聞かなくても分かるような事を聞いてくる。
 その笑顔にそれでも俺はぶんぶんと顔を縦に振り、口の中にどんどんと広がる塩味と、鼻腔を抜けていくアンモニア臭に悶えそうになるのを堪え、テーブルの上に置いてあるサルミアッキを掴むと俺の様子を笑いながら見ている同僚の口の中に次々に放り込んでやった。
 途端に俺達の部署は男女入り乱れた阿鼻叫喚の悲鳴と呻き、デスクとデスクの間でのたうち回る者が溢れかえり、地獄の様相を呈してしまった。
 一番最初にその飴を口へ入れた俺は、なんとか意地でその飴を噛み砕き、飲み込むと、ティッシュの上に残っていた最後の一個を手に取り、じりっと上司へと近寄る。
 さすがに目の前の状況に驚きを隠せず、いつものほわほわとした雰囲気が霧散しておろおろとしている上司の肩を叩き、俺は微笑んで見せた。
「き、君?」
「俺達だけで食べるのは忍びないので、上司もどうぞ一個」
 にっこりといつもは営業先の人間へ見せる笑みを顔に張り付けて上司の口にその最後の一個を近づけていく。
 俺の顔にか、それとも近づいてくるサルミアッキの薬品臭にか上司の顔が引きつり、視線が左右に揺れ始めた。
「い、いや。私はいいよ。君達に買ってきたものだし、ほら、甘い物私は苦手で……」
「大丈夫デース。甘くないので上司でも美味しくいただけますよぉ~~。ほぉら、どうぞ~~~」
 ゆらりと張り付けた笑みで上司に迫り、じりじりと後ろに下がって逃げようとする彼を追い詰めて俺はその口の中に薬っぽい匂いのする真っ黒な石炭の様なその飴を押し込んだ。

 そして、上司の声なき悲鳴が部署の中へと響き渡り、その後、部署の皆が口の中の味が消えるまで午後の業務はまともにすることが出来ず、上司含む全員が残業となり社長からこっぴどく叱られる羽目となった。

 上司の好意はいつもならば嬉しいものだけども、たまにこうして困る事もあるのだと全員が真なんだ。

お題『サルミアッキ』#ノート小説部3日執筆  

サルミアッキおじさんに気を付けなよ。


 そう笑っていた先輩は今、集中治療室で夥しい数の管に繋がれ、寝ている。
 恐らく亡くなるだろう、との話だ。頭をかち割られ、もはや死ぬのを待つだけだと言う。不思議と悲しくなかった。好きだった先輩だったが、死に瀕しては特に感慨は浮かばなかった。
 嘆く先輩の家族に対しても申し訳なさがあり、僕は病院を後にした。
 帰り道、涼しくなった秋の夜。偶然にも先輩とよく歩いた通学路に出た。
 先輩は素敵な人だった。頭も良く誰に対しても優しく、美人だった。僕は同じ部活だったのと、家が近くにあったということから良くしてもらった。

 『わたし、早くこの町を出たいんだー。東京行って、普通に暮らしたいんだ。誰も知らない町に行ってやり直したいんだ』
 『やり直すって……先輩、完璧じゃないですか? この町出る必要なくないですか。何もやり直す必要無さそうですけど』
 『ハハハ……厳しいね、キミは』

 ふとそんなある日の会話を思い出した。今になってはその時の先輩は、どこか表情が固く、仮面のような顔だった。それに対し、病院で死に掛けている先輩の顔はすごく安らかで、適切な表現ではないが何処か微笑んでいるようにも見えた。
 スマホの時計を見ると19:52。時間にはまだ余裕がある。僕は、先輩が襲われた場所へこれから向かう事にした――サルミアッキおじさんが出るという工場跡に。

 工場跡は周囲をコンクリート塀で囲まれており、入口には黄色の立ち入り禁止のテープ。もう何人もここで襲われている。工場自体は小さな体育館程度だが、どこか厭な臭いがした……甘い刺激臭のような、薬品に近いソレだった。
 僕は意を決してテープを潜った。敷地の中に入っていく、寂れ、ゴミや錆びた鉄、無造作に生えた雑草、敷地の中にはそんなモノばかりだった。
 サルミアッキおじさんは、ここ最近よく聞くようになった不審者の呼称だ。サルミアッキを食べるように強要してくるとか、この工場跡に違法に寝床にしているホームレスだとか、過去に小学校で同級生を殺した〇〇の成れの果てだとか、そんな事はどうでもいい。ただ、先輩への弔いのような気持ちで僕はここに来た。警察に突き出すとか犯人を捕まえるだとかそんな殊勝な事は考えていない、ただ、自分が納得したいだけだ。先輩は一人でこの工場に今の僕のように忍び込んだ結果、ああなったと聞いた。その先輩の気持ちを確認したいだけ。
 そう思い、工場の錆びた赤茶けた扉を押し、暗い構内に顔を突っ込んだ途端――――顎に強い衝撃を受けて僕は気を失った。

 ――
 ――――
 ――――――

 どれほど気を失っていたか、気付くと僕は手を縛られジャッキで腕を吊り上げられ、工場内で身動きが取れなくなっていた。
 割れた窓ガラスの向こうから街灯が見える。そこから射す光が、僕の正面……工場の奥を照らしていた。そこには、僕に背を向けてしゃがみ込んだ男――小太りで薄汚い帽子とジャンパーを着ている――が居た。
 ――サルミアッキおじさんだ。直感で分かる。何をしているのか、しゃがんだまま何かを弄っているようだった。僕からは5mほど離れているのと薄暗く何をしているのかは分からない、が。
 ぴちゃぴちゃ、とも。
 ぐじゅぐじゅ、とも。
 どちらとも分からないがくぐもった湿った音が聞こえる。何か声を掛けたいが、怖くなり、喉から声が出ない。
 ピタ、とおじさんの動きが止まった。そして、ゆっくりと、僕の方へ振り向いた。
 指紋まみれの白く濁った眼鏡だった。
 「――オレにはな、””人の業””が見えるんだ」
 鼻水とヨダレと目ヤニが流れたままで固まり、顔半分が見るに堪えない状態になっている。見た瞬間、正気ではないことが分かった。
 「……は?」
 「脳梁の下でな……脳弓柱の下に蟲の姿で隠れてるんだ。コイツをな、誰かが引っ張り出して食ってやらないとな、人はダメになっちまうんだ。助けたいんだ」
 そう言うとサルミアッキおじさんは立ち上がった。手にはハンマーと、何かを持っていた。
 「いや……あのっ、言っている意味が……」
 「こんにちわ!! 挨拶だろ!!」
 突然の怒声。ハンマーを僕へと向ける、唾を吐き、顔を歪ませて怒りを現わしている。
 「あっ、えっ、こん、にち……わ」
 「蟲は食ってやらな……辛かろ? 丘になど行かなければよかったのに。オレは悲しいよ、酢を飲んだ。信じた、なのにこのザマだ。でも漁師はいい、ロバもだ!」
 「ごめんなさい、許してください、ごめんなさい!」
 「それは終わった!! 大丈夫」
 そう言うとおじさんは僕の眼前に何かを突き出した。それは――渦巻いたサルミアッキのグミだった。
 「あの子の業だ。食べろ。食べたくて来たくせに!!」
 「いや、その、何が――――グッ!?」
 口の中に無理やり押し込まれた。噎せ返る様な血の味。思わず吐き出しそうになるも、おじさんが僕の顎を押さえつけて、
 「エロい、エロい~、自分が何しているか分かってるのか!?」
 涙と共にそれを飲み込むと、おじさんは僕を解放した。身体が自由になっても立つことが出来ずその場に倒れ込んでしまった。そしてそのまま、また気を失ってしまった。



 「――――それが、先輩がサルミアッキいつも食ってる理由ッスか? シラフッスか?」
 「シラフだよ。それ以来、このサルミアッキのグミ食わないと””人の業””が見えるんだよ。笑えるか?」
 「笑える……っていうか、別の意味で笑えないっていうか……」
 ワタシが返答に困って髪を弄ると、先輩は何かを眼前に差し出してきた。
 「……なんスか!? なんかグロい!!」
 それは、サルミアッキのグミだった。だけど、何か、イチゴジャムのような……煮凝りのようなモノを纏っており、黒いグミと相まってやけに気持ち悪く見えた。
 「オレが好きなら食べてよ」
 「ハ!? 何スか急に!?」
 「食えよ」
 急に先輩の目が怖くなった。時々、こういう目をする人だった。何故か、そこが好きだった。
 恐る恐る口を開けると、先輩が口内にグミを押し込んできた。そして、ワタシに無言で咀嚼を促し、飲み込むまでずっと見ていた。
 「――ッスか!? マジで怖いんスけど!! しかも何かこれ不味いし!!」
 「オレが作ったグミ! ビビった? めっちゃ面白いわ~~」
 ケラケラと笑う先輩。悪戯する時はいつもこうだ。そう笑っている先輩の顔が急に辟。謨ー縺ョ陋?′郤上▲縺溘?よ$繧阪@縺?%縺ィ縺ォ縺ゥ繧後b縺ォ逶ョ縺後▽縺?※縺?※縲∫ァ√r隕九※隨代▲縺ヲ縺?k縲。
 ?「縺ゥ繧後?∽ココ髢薙?りヲ九∴縺溘′隕九∴縺溘°縲ょャ峨@縺?°縲りシェ蟒サ繧呈悍繧?繧ソ繝?縺ョ閧牙。翫′謌代r隕九◆縲ゅ≠縺ェ螫峨@?」
 縺昴≧險?縺」縺ヲ隨代≧縺ョ縺?縲らァ√?譏取律縺九i繧オ繝ォ繝溘い繝?く繧帝」溘∋邯壹¢繧九□繧阪≧縲ゅ%繧薙↑諱舌m縺励>繝「繝弱r隕九k縺上i縺?↑繧峨?√け繧ス荳榊袖縺?げ繝溘r鬟溘∋縺滓婿縺後?繧キ縺?縺九i縲。


《サルミアッキの原材料であるスペインカンゾウの花言葉は【苦しみからの解放】である》
#ノート小説部3日執筆

#ノート小説部3日執筆 飴が食べたいのじゃね/お題「サルミアッキ」 

私はリビングのソファに腰掛け、テーブルの上に目をやる。
そこには家族が勝ってきたであろう、色とりどりの飴玉がちらりと見えた。

それぞれが異なる味わいを秘めているなかで――私はお気に入りの飴の袋を開けた。

まず手に取ったのは、イチゴ味の飴だ。
袋を開ければ、中には飴が小さな赤い宝石のように、光に反射して艶やかに輝いている。

そっと一口、舌先で飴を転がすと、つるりとした質感が心地よい。

体温で溶けた飴から広がるのは、甘酸っぱい香り。
イチゴの香りはまるで、春先の花のように鮮烈で、しかもどこか懐かしさを伴っている。

唾液が絡み、かすかな酸味を含んだ甘さが染み渡る。
ざらりとした果肉を想起させるような、ほんのりとした酸味が味を引き締めて離さず――
口から飴が消えても、どこか、イチゴのエッセンスが残っているように感じる。

次に手を伸ばすのは、深い紫色が美しいブドウ味の飴。
イチゴの飴とは異なり、この飴はどこか神秘的な青紫色だ。

口に含むと、最初に感じるのは予想外の爽やかさ。
そして、溶け始めると、ブドウ本来の複雑な味わいが顔を出す。

果汁が混じっているのかブドウの味は非常に深みがある。
一粒に凝縮された豊潤な果実感が舌の上で複雑に交錯する。

じっくりと味わえば、甘さと酸味のバランスが絶妙で――
まるで高級なジュースをを口に含んでいるかのような重厚さだ。

次にふと思いつきでミルク味のものを選ぶ。
舌にのせれば、ほのかなバニラのような香りが漂う。

ゆっくりと溶け始めると、ミルクの味と香りが徐々に鼻腔をくすぐっていく。

口の中で転がしていると、ミルクの優しい甘さがじんわりと溶け出し―――
まろやかな口どけの中に、ほんのりとしたクリームのリッチな味わいが心地よく舌に残るもの。

微かな塩味が複雑な味わいを産み、味わいにどこか古い懐かしさを感じるものだ。

最後に残しておいたのは、キャラメル味の飴だ。
今はもう、食べる機会も少なくなったが――

舌にのせれば、濃厚なキャラメルとバターの香りが漂う。
それが、たまらなく幸せなのだ。

舌の上でそっと溶かす――
すると、キャラメル特有の香ばしさと深い甘さがじわじわと広がっていく。

カラメルのようなほろ苦さと、バターのまろやかさが絶妙に絡み合う。
飴が完全に溶けきった後も、その余韻は長く続く。

歯に張り付いた飴の名残が――
しばらくの間、口の中にキャラメルの風味を留めているようだ。

もういいだろう――いや、良くないか。
最後に残ったこの黒い飴からは、ただならぬ気配を感じる。

いや――何事も、食べず嫌いは良くないだろう。
ころころと、箱から取り出したのは、小さな黒い菱形のキャンディ。

いわゆる、サルミアッキである。

この光沢のある表面は、まるで磨き上げられた黒曜石のようだ。
指で摘むと、わずかに粉っぽさを感じる。

食欲をそそるとはとても言い難いその塊を、手の中でしばらく転がしてみる。
表面は微かにざらつき、湿ったような艶がある。

硬いゴムのような見た目は、タイヤのようにも思えてくるが――
決意と共に、その小さな塊を口に運ぶ。

一口、舌の上に載せた瞬間、塩味が広がる。

それは、海水のようなしかし単純な塩水とは違う複雑さがある。
何とも形容しがたい感覚が口腔内を支配する中で、艶やかな黒い飴は複雑な香りを漂わせた。

それは薬草のような、薬品のような、明確には分からない風味であった。

続いて、塩味に続いて甘みが顔を出す。
甘口なのか辛口なのか、どこか曖昧な味が口内の隅々まで広がる。

砂糖の甘さではなく、もっと奥深い、大人びた甘さだ。
それは黒糖を思わせるが、さらに複雑で深遠な味わい。

甘みと塩味が絶妙なバランスで共存するような――
一筋縄ではいかない複雑な味わいが、舌の上をゆっくりと侵食していく。

溜まらず噛むと、最初はほんのりと硬い感触――
だが、次第に柔らかに変わりねっとりとした食感が舌に絡みつくように変わる。

噛むたびに、さながらキャンディのような甘さから一転――
塩リコリス独特のしょっぱさが顔を出し、思いがけない苦味がかすかに現れてはまた引っ込む。

サルミアッキの真髄とも言える独特の風味は、言語化が難しい。
薬草のような、しかし単純な薬味とは違う。ミネラル豊かな味わい。

舐め進めるにつれて――
アニスのような爽やかさ、リコリスを思わせる甘く深い風味――
そして時折感じる微かな苦みが、複雑な味のハーモニーを奏でていく。

濃厚で力強い風味だ。
日本人は薄荷を好む――こういう飴を好む人もいるのだろう。

口の中からサルミアッキは消え去る。
だが、その異物感は何処か――まだ舌に残っているようにも感じる。

私は、溜まらずイチゴの飴を口に放り込んだ。
先ほどと比べて明らかに濃厚に感じられる甘みが嬉しい。

サルミアッキ、すまない。
君が思い出の味になるには、もう少し時間がかかりそうだ。

#ノート小説部3日執筆 「火星の祠」 お題:祠 

祠──それは神仏を祀る神聖な小建築物である。人の手が入りにくい場所に置かれ、ひっそりと人々を見守るものであり、壊せば祟りがあるなどのいわくがついて回るものである。
主に地球は日本で見られるものであり、神仏なき火星では無縁の存在である──と思われていたのだが。
最近火星のとあるターミナルではその「祠」が見つかり、近づけばとんでもない祟りがあると評判になっていた。
曰く、祠に近づこうとすると巨大な化け物に遮られたとか。
曰く、近づいた者は悉く神隠しに遭って後日異なるターミナルで放心しているところを発見されたとか。
普通ならそんな話を耳にしたならば、近寄らないようにしようと思うものだが、逆にじっとしてはおれない困った
癖(ヘキ)を持つ者がいる。
火星きってのオカルト好き、前山
白(あきら)はそういった厄いスポットの噂を聞きつけてはトラブルを厭うことなく訪い、時には期待を裏切られ、時にはそれなりに奇妙なことに巻き込まれながらも決してオカルトスポット探訪を諦めない変わり者なのであった。
そういうわけで前山は、意気揚々とその噂の祠へと向かったわけである。
件の祠はターミナルの外れ、居住区と荒野を隔てる壁のほどなく近くにあるらしい。
荒野へと向かう幹線道路からも外れたところにぽつんと建っているというのも、実に祠らしい。
果たして火星の祠に祀られているのは何者なのか。原生民がかつて(あるいは今も)信奉していた旧き神か、それとも気まぐれに火星に降り立った外つなる神か。
前山は、感情が読めないと評判の三白眼を未知との遭遇を思ってきらきらと輝かせながらターミナルの外れへと向かったのだった。

そうして彼が発見した祠は、石造りのなかなか立派な代物だった。
何故か切妻屋根がふたつついていて、見方によっては猫のように見えなくもないが、前山の背丈より僅かに低いだけのそれは祠にしては大型で、これを建てたものたちの深い信仰を窺わせる。
「……でもこの祠、何かに似てる気がするんだよな……それに、建てられてからそんなに経ってない気がする」
怪異に邪魔されることもなく祠と対峙した前山は、しげしげとその造形を眺めながら首を傾げた。
伝統的宗教観に基づいて建てたのならこのような風変わりな造形にはしないだろうし、かといって火星で怪しげな新興宗教が興ったという話も聞かない。
他に考えうる可能性は入植民から祠の話を聞いた原生民が真似をしてそれらしきものを建てたというあたりだが……
(ん……? 原生民……?)
前山の脳裏に、火星で今まで遭遇した数々の怪異が蘇った。
一度行ったら二度と戻れないと言われる路線図にない無人駅で、笛や太鼓を鳴らしてお祭り騒ぎをしていた
原生民(blobcatcomfy)
サンドワーム発見の報を聞いて駆けつけた荒野でのたくっていた恵方巻き型(と後に分類されるようになった)
blobcatcomfy(こんふぃ)
いわくありげな蔵で発見したいかにも怪しい封印されていた箱から無限湧きしたのもこんふぃだった。
「……そうだ、この祠、こんふぃに似てるんだ」
前山はハッとしたように呟いた。
……ということはこの祠はこんふぃが建立したのか、あるいはこんふぃを神と信奉する変わり者が建立したのか。
どちらにせよ、ここで人々が遭遇したという怪奇現象はこんふぃの手によるもので間違いない。前山の経験に裏打ちされた勘はそう告げていた。
「あいつら集団で飛んだり、ブレーメンの音楽隊の真似事したり、何でもアリだからな……」
前山は今までに遭遇した怪異(便宜上)を思い出してため息をついた。
多分この祠も、開けたら大量のこんふぃが出てくるとか、あるいはこの祠そのものが新種のこんふぃだったとか、そういうオチだろう。
しかしそこまで予想していても、何もせずおめおめと引き返すようなことは決してしないのが前山白という男であった。
えぇい、ままよ!
前山は思い切って祠の扉を開く──
──と同時に中から溢れ出した色とりどりの布の山に襲われ、のけぞり、どうと尻もちをついた。
「……?!」
何が起こったのか理解できず、前山は一瞬呆然とする。
オーソドックスな型ではあるが模様は様々なこんふぃ用おふとんの山が前山の膝の上に雪崩れこみ、まだ縫われていない花柄のハギレやパイピング用のテープが宙を舞う。
おまけにどこから持ってきたのか人間用サイズのテーブルクロスやカーテンまで出てきて、風に煽られたそれらがばさりと前山の頭を直撃して覆いかぶさった。
正直これがスカートの類でなくて良かったと思う。
「オカルト好きの人」なら前山にとってはむしろ褒め言葉だが、「スカートをかぶった人」となるとただの変態の謗りをうけてしまうからだ。
しかし何だって祠の中に布きれなんか──
そう思っていると、背後から原生民特有の訛りのある発音で叱りつけられた。
「アンタ、ほこら開けたらダメ習わなかたノ!」
振り返るとそこには裁縫道具を抱えた1匹のこんふぃが怒りを露わにして立っていた。
「えっ……あ……サーセン……」
「サーセンちがう、ゴメンナサイでしょ!」
「……ゴメンナサイ……」
祠の扱いに対してだけでなく、言葉遣いにまでダメ出しをされてしまった前山は、複雑な気持ちを隠せない。
「ゴメンナサイしたら片付け手伝う、イイ?」
「……うっす……じゃなかった、ハイ……」
こうして自分の身長の半分以下のこんふぃに気圧されて、前山は散らばってしまった布たちを片付ける羽目になった。
「けど何だって祠の中にこんなに布を……?」
多分このこんふぃが祠の管理者だろうとふんだ前山は、叱られの後始末をしている最中にも関わらず、好奇心からこんふぃに尋ねてみた。
するとこんふぃから返ってきた答えは──
「祠、大事なものしまうネ! ファッションショーのおふとん、とても大事! だから祠作て仕舞うした!」
「……ファッションショー、するんすか」
「そうヨ! みんな楽しみしてる、たいせつな祭りネ! 手伝うするなら特別に見せてイイヨ」
……なるほど。祠は大切なモノを収める場所なのは間違いない。
そしてこんふぃたちにとって自らを着飾るおふとんは大切なモノに違いない。
だけどそれって。
だけどそれって。
「そういうのはクローゼットにしまった方がいいんじゃないスかねぇ?!」
──衣類をしまうのは祠じゃなくてクローゼットなんだよなぁ!!
そう、祠と噂されていたこの石造りの小建築物は、こんふぃたちのファッションショー用のクローゼットだったのであった。
とはいえ前山が禁忌を破ったのは事実。
彼はその代償として散らばった布たちをかき集め、ついでに仕立ての手伝いもさせられ、元はカーテンやテーブルクロスなどだったカラフルなおふとんに身を包んで練り歩くこんふぃたちの姿を見物し、最後には自分も特大のおふとんを着せられてモデルウォークをすることになってしまったのだった。
不用意に祠に触れると祟られる──前山はそれを身を以て理解した。
だがそれで彼が懲りたかというとそれはまた別の話である。

おわり

ゲスト:前山白(火星のオカルト好きの人)
さまOC
お題箱:
https://x.gd/kGA5G

#ノート小説部3日執筆 お題「祠」 タイトル:ネットで流行るという事 ※微グロ/微ホラー 

最近、巷では古びた祠を壊すのが流行っているらしい。
 ――と言っても、あくまでもネット上での話だ。
 とあるSNSでとあるポストがバズった事で、瞬く間にそのネタは拡散されそれぞれがそこから連想されるホラーやコメディなど新たに創作が生まれていく。
 手の中に納まるサイズの薄っぺらい板には連日次から次へとその物語の断片が流れていく。
 口に咥えている煙草を燻らしながら、すいすいと指先でスクロールをし様々なネタを読んでいくとふとその中のひとつのポストが目に留まり、指が止まる。
 何通にも渡るツリーで綴られているその物語は、今まで見てきたネタとは何かが違うと感じさせるもので。
 具体的な名称などは当たり前だがぼかしてあり、時には全く別の実在しない名称に置き換わっていたにも関わらずそこに描かれている事象の数々はどうにもネタというには変な感じがした。
 もちろん今流行りのネタに合わせて登場人物や内容は着色されているのだろうが、しかし妙にリアルな内容から恐らくこれを書いた人間が実際に体験した事なのだろうと思われた。
 ふぅ……と紫煙を吐き出し、読み進めている間に短くなった煙草の灰を持参している携帯灰皿を取り出しそこへ落として、揉み消した。
 そして視線を今一度スマホの画面へと向ける。
 S県M村。リアルタイムで更新されているそのツリーに出て来るぼかされている地名。
 ちらりと自身が立っているバス停に書かれている町名を見て緩く口元を吊り上げる。
 そして、夕暮れが迫る田舎の砂利道を革靴でゆっくりと歩き始めた。

 一歩進むごとに足元で砂利の擦れる音が静かな田舎道に響く。暫くそうして家らしい家のない道を山へと向かって歩き進めると、黒い影となった家の形がぽつり、ぽつりと現れる。
 だが、その村に人気はなく、そろそろ暗くなろうというのに明かりのひとつも見えなかった。
 胸ポケットから煙草を取り出し新しい一本を口へ咥えて、ライターで火を灯す。
 すぅっとほろ苦さのあるその煙を呑み、村の入り口でふぅっと吐き出す。
 途端に山の方で奇妙なカラスの様な、フクロウの様な鳴き声と共に羽ばたきの音が聞こえてきた。
「……厄介だな」
 暗く沈む村々を見つめながらぼそりとそう呟く。村の中に続く一本道は山の奥へと伸びているのが白く浮かんでいて、それはまるで訪れた人間を山へと誘っているようにも見えた。
 ゆっくりと足をその村に踏み込ませる。
 バチッ。
 小さく何かが弾けるような音が足元に響き、次いで、その村との境界線をまたいだ部分全てから静電気の弾けるような音が続く。
 そして体の全てが村へと入ったところで、今度は耳の中にりーんっと澄んだ鈴の音が聞こえてきた。
 その音を聞きながらゆっくりと燻らせている煙草の煙を吐き出していけば、ゆらゆらと揺れてその煙が自分の体をまるで取り巻くように覆っていく。
 もう一度吸い込んだ紫煙を吐き出し、二重にその煙が自身の体を覆うのを確認した後ゆっくりと山へと続く緩やかな村の中の坂道を歩み始めた。
 その度にバチッ! バチッ! と煙から小さな火花が起き、薄く消えていくのを見ながら、またゆっくりと煙草の煙を吐き出す。
 それを何度か繰り返した後、ほどなく村外れに辿り着いた。
「……あーあ」
 そしてそこにある光景を見て呆れた様に呟く。片手に持っていたスマホの画面を見やると先程までリアルタイムで更新されていたツリーはぴたりと動きを止めており、目の前の惨状と合致している事に口の端を緩く吊り上げて笑う。
「ダメだよ。こんな村に来ちゃぁ」
 喉を震わせて笑い、吸っている煙草を壊れている祠の傍に転がっていた本来は線香を立てる香炉の中へ立てる。
 そしてもう一本新しい煙草を取り出し、火をつけるとそこでスマホを握り締めたまま無様な格好で寝転がっている若者の顔へと吸い込んだ紫煙を思い切り吹きかけてやった。
 瞬間、驚いた様にその若者は飛び起き、ゲホゲホと噎せたかと思うと口元を押さえ、慌てた様に少し離れた場所まで這って行きそこで吐き始めた。
「今は便利な時代だねぇ。アンタ、運が良かった」
 くっと笑い、黒く淀んだ|な《・》|に《・》|か《・》をげぇげぇと吐き出している若者の背中に向けてまた煙草の煙を吹きかけてやる。
 するとその若者の喉が大きく膨れ上がったと同時に、明らかにその体の中にあったとは思えない量の黒い吐しゃ物が地面の上にぶちまけられた。
 涙と唾液と鼻水でぐちゃぐちゃになり、タールの様な吐しゃ物で口元を汚した若者は四つん這いのまま荒く息をしてこちらに意識を向ける事さえも難しいらしく、その場で戦慄いていた。
「現実の穢れを誘い込むんじゃないよ、ここへ」
 礼の言葉さえも発せられない若者の横にしゃがみ込みその背を二度、三度ポンポンと叩いてやり、顔を覗き込んでそう囁けば若者の顔が大きく恐怖の色に歪み、ぽかりとその口が開く。その口の中は今しがた若者が吐き出したタールの様な吐しゃ物と同じくらい真っ黒で、その喉の奥にぎょろりと動く目玉があった。
 その目玉に向けて緩く微笑み、吸っていた煙草をその口の中へと押し込んでやる。
 ギャッ! と人間が発するには酷く濁った音がその喉から発せられ、若者はもんどり打つ。その顔にはいつしか目玉がなくなり、どろりと黒く濁った穴だけがあった。
「中身はちゃんと現世へ帰してやる」
「オ゛マ゛え゛ハ゛……ッ」
「知る必要なんてないだろう」
 もう一本煙草を取り出し火をつけその煙をすでにヒトの形を保てなくなりつつあるソレに向けて吹きかける。ゆらゆらと煙は意志を持ったように動き、ソレを覆い尽くすと断末魔にも似た咆哮を山の中へと響かせ、ぐるぐると回りながら煙が消えていくのに合わせてその姿も薄れ消えていった。
 その姿が完全に消えるのを見届け、壊されていた祠へと目を向ける。
 だが先程まで確かに壊れていたそれはいつの間にか元通りの姿に戻り、まるで何事も無かったようにそこに佇んでいた。
「――アンタも流行りに乗っかってバカな遊びは止めときな」
 煙草の煙を呆れた様に吐き出し、先程と同じように線香を立てる香炉に今吸っている煙草も指してやる。
『……線香くらい持ってこい。このバカ息子が』
 どこからか重く響く様な声が聞こえ、それにハッと鼻で笑い地面に落ちている先程の若者が持っていたスマホを拾う。
「アンタ、いつか本当に壊されるよ。近頃は信仰心なんて欠片もない人間が多いんだ」
『構わん。それだけ贄が増えるだけだ。……あぁ、それは置いていけ』
 こちらの忠告を相も変わらず意に介さずぐわんぐわんと山鳴りの様な笑いを響かせるソレに呆れた様に嘆息する。
 そして言われた通り誰ものモノかもわからないスマホを祠の扉を開けて中へとしまう。
 ――またすぐに誰かがそれで惑わされるのだとわかっていても。


 誰も崇めなくなった祠に祀られている神は、こうしていつしか人を呼び込む禍つ神となる。
 信仰がなくなり、崇める事が遠くなり、神はネタとして消費される。だから、神もまた、人を消費するのだ。
 文明が発達したが故に禍々しい好奇心の種をどこへでも届く電波に乗せて――。

 ほら、今日もまた禍つ神に誘われて穢れを纏った君も。

#ノート小説部3日執筆 お題【祠】 

「おにはいずこ」



「……ご当主、ちょっとだけよろしいですかな?」
 朝、懇意にしている山寺の住職が家を訪れるなり室賀の父、富士にそう言う。
「……急にどうされました」
「少々……困ったことになりまして、いや、見ていただいた方が話は早いもので」
 住職は、さぁさぁ、と彼を急かして寺の方へと向かう。話が見えぬままの富士はそれに従うしかなかった。住職は寺を通り過ぎ、更に山の方へと登っていく。その途中で彼はようやく話を始めた。
「……この山の鬼の伝説はご存知でしょう」
「……あぁ、鬼が住んでいたところに天狗が喧嘩を売りに来て争ってたら鬼の角が折れてしまった、というアレだろう?」
 ざっくりすぎる説明に、住職もまぁそんな感じです、と頷く。
「続き、というか結末までは?」
「…なんとなく。取り返すために延々と争って、ようやく取り戻した時には持ち主の命は終わっていて、返せなかった事に嘆いた一族がそれを祀った……という感じか」
「そうです。その祠がこの先に。……ところが先日、ここを何者かに荒らされまして、角が盗まれてしまったみたいなんです」
「それは一大事じゃないか」
 しかし目の前の住職は、それほど慌てた様子もなく、小さな祠の元へ歩み寄る。祠の戸は鍵ごと壊され、周囲を囲っていた縄も切られていた。住職はその前に屈んで、落ちた木箱を拾い上げる。
「……言い伝えでは、この中に入っていたそうですが……誰も見たことがないのです。だから本当に入っていたのかもそれすらわかりません」
「……住職は、確認しようと思わなかったのか?」
 そう問うと彼は穏やかそうに微笑んで言った。

 ―呪われては敵いませんから―

 二人は祠の状況を確認し、警察に届け出た。中身があったのかなかったのかは定かではなかったので、壊された事について被害届を提出するだけに留めた。
 
 寺に戻り、二人は大きくため息をついた。厄介な事になった、と住職は言う。
「……前世の私くらい、呪い覚悟で中を確認しておくべきでしたね」
「……まぁ、こういうのは迂闊に手を出さないものだろうし……それを壊すような輩がいるとは……」
 本当に中身があって、それを盗み出されていては取り戻すにも困難を極める。しかし、ふと富士は思い立った。過去になく現在にあるものを。
「……スマホだ」
「……はい?」
「こういう愚かなことをする輩は、もしかしたら動画サイトに載せているかもしれないだろう。それらしい単語を入れて検索すれば引っかかるかもしれない」
 二人はインターネットの検索機能に単語を打ち込み、ひっかかるものがないかを探した。しばらくして、二人は同じ動画に行き当たった。最新作はいかにもここの祠を映している。
 冒険家気取りで意気揚々と立ち入り禁止区域へと入っていく若者がいた。顔もしっかりわかるようにカメラを向けている。彼は祠を開き、木箱から何かを取り出した。
「……中身は本当に、あった……」
 住職が思わず呟く。画面の中の若い男が手に持っているのは白い石のようなものだった。角、というよりごつごつした小石だ。画面の中の男はいかにもがっかりした、とでも言いたげにその石らしきものをポケットに入れると締めのあいさつを言い始める。
「これだけはっきり顔もわかっていればすぐ捕まるだろう。警察に通報だ、通報」
 富士はすぐ電話で警察に祠の動画の事を伝える。住職は何やら考え込んでいるようで、動画を巻き戻し、中身が映されている部分をじっと見つめていた。
「……無事にあの角の一部が戻ってくれば全て事は収まりましょう」
「怨念みたいなものが散ってたら?」
「……そういうものは、角の一部と共にあるのではないでしょうかね」
「……まぁ、よくわからんが……呪いが本当にあって暴れてなければいいけどな」
 そうなっては鎮めるのも大変だろう、と住職に言うと、その際は全身全霊で頑張るしかないですね、と今度は困ったように微笑んだ。



 富士からの通報を受け、捜査をしていた警察はすぐ容疑者を割り出し逮捕に向かった。動画の存在が捜査を一気に進展させたからだ。
 安アパートに向かい、ドアを叩くが中からの反応はない。予め連絡していた大家よりドアを開けてもらい中に踏み込む。
 だが容疑者の青年はパソコンの前に座り込んだまま動くことはなかった。
 全身が鋭い爪で裂かれたような傷を負い、既に死亡が確認された。

 その惨状の中にありながら、傍らの小石に血は飛んでおらず、きれいなままだった。

#ノート小説部3日執筆 お題:祠 


「よくもこんなに人がいるもんだ」
 
 人でごった返す通りを見ながらテーブルの上のカフェラテを口に運んだ。
 お茶でもしようと待ち合わせていた会社の先輩は、約束の時間から15分経ってもまだ来ない。
 普段から不思議な行動の多い人だ。どこかで道草でも食っているのかとため息を吐く。
 そうして大分少なくなったカップの中身を飲みほしたとき。

「やっほー。ごめんよ、途中で道が混んでてさ」

 あまり悪いとは思ってなさそうな声が頭上から降って来た。

「お早いご到着で」
 
 俺の皮肉にも全く動じず、矢って来た店員に「ブレンドで」と注文してからこちらを向く。

「なんか祠が壊されてるからって迂回してんだよ」

 日常でなかなか聞かない理由だが、今だけはそうでもない。というのも。

「最近祠を壊すとかっていう話をよく聞きますもんね」

「“祠ネタ”だっけ?なんだかネットミームみたいになってるね」

 先輩は店員の運んできた珈琲をずず、と啜る。
 そう。今は空前の“祠破壊ブーム”である。
様々な人がこの町で祠を破壊する話や絵やらを作っているため、祠が壊れる、壊されるなんてことはよく耳に入る話題となってしまった。
 先輩は「あちち」と言いながら、珈琲を置く。

「道にある祠の中身は“地蔵菩薩”いわゆる『お地蔵さん』が多いんだよね」
 そう言われると確かにお地蔵さんに屋根がかかっている物を見たことがあるかもしれない。

「壊したら祟られそうなもんですけどね」

 それを聞いて先輩は笑う。

「仏って言うのは基本的に祟るものじゃないんだよ。罰は与えるけどね」

「どっちにしても何かしら起きるんじゃないですか」

「まぁね。でも、それは本当に恐れるようなものなのかな?」

 そう言って、何かを思いついたようにニヤッと笑う。

「じゃあ、例えば壊された祠が地蔵菩薩のモノだったと仮定しようか」

 しまった、変なスイッチを入れてしまった。
そう思った時にはもう手遅れだ。こうなったら先輩のペースで話は展開されていく。

「お地蔵さんは日本だと道祖神の性格も持って信仰されてる。神仏習合というやつだね」

 神仏習合というのはかろうじて学校の勉強で聞いたことがある。確か神様と仏様を合体させる、みたいな話だったはずだ。
 しかし道祖神というキーワードが分からない。首を傾げていると先輩が補足を続ける。

「じゃあ道祖神は何かって言うと『外からくる悪いものを防ぐ』神様なんだ」

 なるほど。だから道にあるという事か。

「そこで、だ。祠が壊されることによって起きる悪いこと。それはこうも考えられる」

『それは祠の神様の怒りじゃないかも』ってね、とにやりと笑って続ける。

「どういうことですか?」

「壊れて祠が機能しなくなって、そこに居た神様がいなくなれば外の悪いものは入り放題だ。それが悪い事の原因かもしれないよ?」

 外から来るものは怖い。それは未知のものに対する恐れだろうというのはなんとなくわかる。もしくは村や町、自分の居る場所を守るための防衛反応か。

「じゃあ『悪いもの』とは何だろう?病気?ウイルス?それとも……人間?」

 だんだんと話の雲行きが怪しくなってきたのを感じて、思わず腕組みから自分の肩を抱く格好になる。

「信仰って言うのは人の祈りと願いだ。そのコミュニティの人間のね」

 先輩の言葉は止まらない。少し俯いて虚空を見つめながら、話の結論に迫っていく。
 その口を挟ませない圧が、半径2メートル程度の空間を異質なものに変えていく。

「そうなると、排他的なコミュニティなら入って来るモノ全ては『悪い者』となる」

 その言葉でぞっとする。排他的で余所者に厳しい村。それは現実だけではなく、仮装現実も含めた大小多くのコミュニティで構成される場所を連想させた。

「さぁ、もう一度聞こうか」


——それは、本当に恐れるべきものかい?


 俺は言葉を返せない。

「ま、何に置き換えてもいいさ。ムラ、家族、会社、そして……SNSでもね」

 話を続ける先輩の声にも熱が入る。

「変化を恐れるのは、人間のサガだ」

でもね、と続ける。

「私はそれが仕方ないとは思わない。変化は可能性でもある」

 その言葉を聞いて俺は一つの考えに至る。

——もしかして、この人は。

 先輩は顔を上げる。
その瞳は空虚だ。そのまま、来た方角を見て小さく呟く。

——だから祠を壊すのさ。

#ノート小説部3日執筆 「山のみぞ知る」 

錫杖を携えて歩く、多頭蛇がひとつ。足は二本で、首は三本、腕が四本ある。大まかに人の形こそしているが、脊椎から二匹の蛇が出ている。四つの腕はほとんど暇をしていて、右腕の一本が錫杖を持っているくらい。
腕と首さえ無視すれば、行脚の僧だと思うだろう。笠を被り、着物を着込んでいるのは、この時代では珍しいものだ。

こいつはかつて、ただの人の子だった。
ある時、村の掟を破った悪ガキから呪いをなすりつけられた。こんな身体になったもので、気味悪がられて捨てられた。
安住の地を探すため、今日も今日とて歩いている。

此奴の身の上話はさておき。そんな蛇人間は、ある山までやってきた。一番近い街から、さっくり4日は歩いた。
今はちょうどイチョウの時期。山は黄金色に染まっている。
「きれいじゃ!」
「よやっと秋じゃ!秋が来たのじゃ!」
二匹の蛇が口々にはしゃぐ。近年は気候が極端で、猫も杓子も植物も、秋を感じることは少なくなっている。

そんな中でも、本体は歩みを止めなかった。アスファルトの道を外れ、獣道を進み、もはや道と言えない地面を、ひたすらに進んでいく。
四つの腕は必ずどれかの木を掴んでいる。そのため、滑落の恐れは無い。なにかあれば、蛇たちが上手くやる。
そうでなくても、ほとんど妖怪のようなものだから、物理的外傷で死ぬことは無い。

どんどん進んでいくと、ある所に小さな祠があった。朽ちてはいるが、まだ社の形を保っている。
「ここは空っぽじゃ」
「もうおらんのかのう」
蛇たちは口々に言った。本体はというと、ただその祠を眺めているだけだった。

本体は少しだけ近付くと、すっとしゃがんだ。中を覗き込むためだ。
祠の奥は、やはり空っぽだ。お仏像やご神体といった物は見当たらない。風化してチリチリになった御札のようなものがあるくらいで、それさえ何が書いてあるか分からない。
「これじゃ、誰が祀られとったか、分からんのう」
「せめて本体が居たらよかったものを」
蛇たちは文句を垂れる。だからどう、というものでもない。
別にこの祠を壊したり、直したりするわけでもない。ただ、そこにある事実を、ぼんやりと眺めるだけだ。

全てのモノに神が宿る、とは古来から言われるものだ。
ただ、それは常に『畏れ敬うニンゲン』がいるから存在するものでもある。
この山の祠が、何を祀っていたのかは知らないが、感謝し畏敬していた人間がいたのは事実だ。その人間が離れていった結果、祠という形だけが残っているのだ。

ふと、どこかから人の声がした。
「――もうボロっちいからさ。オレらで解体すんだよ!山ん中じゃ重機来れねぇし」
「おいおい、やめろって。祟られて死んだらどーすんだよ」
「ンだよビビってんのか?そんなのジジイどもの迷信だって。科学的にありえねーから」
声からして、そこら辺の子供が三人。まだ距離はある。

「なんとまぁ、バチ当たりなガキじゃ」
「なんとまぁ、舐め腐った子供じゃ」
蛇どもが臨戦態勢になった。此奴も、村のクソガキのイタズラで酷い事になったからだろう。子供の純粋な悪意は、末恐ろしいものがある。

本体は祠を背に立つと、くるりと声の方を見た。
道のようなものが辛うじてあるくらいなので、人が来る方向は一つだ。
「クソガキめ。お仕置きしてやらねば」
「悪童め。根絶やしにせねば」
蛇たちの口がどんどん悪くなる。本体は、そんな蛇の頭をそっと撫でて諌めている。
ひとしきり撫でた後、縫い付けられた口の縁を強く引っ掻き、血を垂らした。
傍から見れば、四つ腕の怪物がなにかナマモノを食った直後に見えるだろう。威嚇には十分だ。

子供の音が近付いてくる。そろそろ姿が見える頃合い。
山の斜面の下からやってきた子供たちが上を見れば、祠の前には異形が立っている。逆光で顔が見えないので、血を垂らす作戦は失敗したようだが。
「ヒェ!?」
「お……おい、聞いてないぞ」
予想外の怪物との遭遇に、子供たちはすっかり逃げ腰だ。

蛇人間は錫杖で一回、地面を叩いた。シャン、と小気味よい音がこだまする。
いっときの沈黙、またしばらくして、地面を叩く音と杖の音が響く。
「は……はい!帰ります!」
何を告げたわけでもないが、子供の一人がそう口走る。そしてそれを皮切りに、蜘蛛の子も驚く速さで逃げ帰っていった。

「ケッ!二度と来るなよクソガキ!」
「チッ!命拾いしたな悪童!」
捨て台詞を吐く蛇をまた撫でながら、蛇人間はまたどこかへ歩き出した。
次の目的地は定まっていない。

「ところで、どうしてここに来たんじゃ?」
「ワシら、あそこにご用あったか?」
蛇たちの疑問符を聞いた本体は、少しだけ目を伏せた。


――
「お前たち!勝手に山に入ったらダメだと、あれだけ言っただろ!」
ジジイから怒られた。やっぱバレてたか。

こっから自転車で1時間くらい行くと、手付かずの山がある。オレたちはそこを秘密基地にしていた。休みの日に魚釣ったり、サバイバルごっこしたり。まあいろいろ遊んでいたわけだ。

その山を超えてもっと行くと、自然がキレイなもう一個の山がある。その奥にはオンボロの祠があって、なんか建物の跡地まである。建物を解体して、秘密基地を強化しようと遊びに行ったら、今回の一件ってわけだ。

「とにかく!クソガキどもは三日間、外出禁止じゃ!」
ジジイからトンでもねぇ事言われている。
「おい!俺達明日から後期授業だぞ!」
「うるさい!学校も禁止じゃ!先生がたには、ワシが言っておく!」
頑固ジジイ、こうなるとテコでも動かない。最悪だ。

「どーしよ。さすがにアレなことになっちゃった……」
あんだけ元気だったタツヤも、すっかりしょぼくれてる。もともと、オレが言い出さなかったら探検もしなかったが、プランを考えてくれたのはタツヤだ。
山を安全に登るルートを割り出してくれたのはコイツだ。

「なぁ、リュウジ。あの怪物ってまさか……」
「ないない。蛇男が今も生きてるわけないじゃん。何百年も前の話だろ?」
蛇男ってのは、この町がまだ村だった時から伝わる言い伝えだ。
なんでも、祠のお供え物を勝手に食べたヤツが、その祠に封じられていた大蛇に取り憑かれたらしい。ソイツは呪いのせいで、腕や頭が増えて、気味悪がられて山に捨てられたって話。

まあなんというか、口減らしとか、生贄とか、そういう話を脚色したものだろう。いろんな口実をでっち上げて、子供を捨てる大義名分にしたやつだろう。

「あの祠がそうなら、オレもタツヤも、マサトだって、蛇になってないとおかしいだろ」
実際、一回だけあの祠に触ったことはある。祠の扉が開いてたから、ちゃんと閉めてあげた。建てつけが悪くてまた開いちゃって、結局そのままにしていた。

「まさか、あのバケモン、それで恨んでたり?」
「ないない。開いてたのを閉めただけだぜ?むしろプライバシー的に正解だって」
二人の不安をなんとかしようと、口八丁でごまかしている。
内心はずっと、冷や汗が止まらない。

今度あの怪物に遭ったらどうしよう。せめて謝罪とかするべきか?
「なにボサッと立っておる、クソガキども!帰りなさい!」
問答無用で、ジジイから家に押し込まれた。
……自習の用意、するか。

#ノート小説部3日執筆 麻婆豆腐が食べたいのじゃね/お題「祠」 

クラスのいじめっ子が祠を壊してしまったのを見た。
 翌日、怒りの表情で神様が家を訪ねてきた。

 和服を着た銀髪の中学生くらいの少女であったが頭に狐の耳が生えている。

「許さん……貴様、許さん……」
「マジですか、俺は見てただけなのに……」
「止められなかったんだから同罪なのじゃ!! 祠が再建される間、お前が飯の面倒を見ろ……ちなみにお前以外は全員祟り殺した!!」

「ちなみに親御さんの許可は取った。選択権はなしじゃ」

 頭が真っ白になりながらも、状況を整理する。
 目の前にいる神様が本物か偽物かなんてことは、この際どうでもいい。

 問題は、俺がただの町中華の息子であり――クラスで人の輪にも入れない、ただの陰キャだということだ。

「早速飯を作れ。ここは中華料理屋なんだから期待しているぞ」
「口に合わなくても、祟るなよ」

 確かに俺は、店の手伝いをしている。
 多少なら、飯も作れるが――初戦は手伝いで、親の味には敵わない。正直店も繁盛しているとは言い難い有様で、それも俺がクラスで馬鹿にされる理由になっていた。

 でも、こいつには正直恩がある。
 何より自分の飯を食いたいと言ってくれるヤツに、手を抜くのもいい気分じゃない。

(だったらもう、本気でやってやる!!)

 まずにカンカンに熱した中華鍋に挽肉入れて、塩コショウを加えた挽肉をしっかり炒め、甜麺醤と紹興酒と醤油をよく混ぜた調味液で味を付けて冷ます。
 
 鍋にお湯を沸かしている間に、にんにく、生姜、豆豉、白ネギをみじん切りにして、ニラもざく切りに切る。片栗粉と水を混ぜ。豆腐は水の張ったボールの中で、1.5cm角に切っておく。

 沸騰しない程度に豆腐を茹でる――

 ここからが、勝負だ。 
 油を戻した中華鍋に、花椒を加えて郫県豆瓣を入れる。
 にんにく、生姜、豆豉、肉味噌、一味唐辛子を加え、香りが立ったら挽肉を戻す。

 たまり醤油と砂糖で味を調えて、茹でた豆腐と中華スープを加えて一煮立ちさせる。水溶き片栗粉でとろみをつけて、ラー油をしっかり入れると――真っ赤な麻婆豆腐が湧き上がる。

 最後に白ネギのみじん切りとニラを入れ、鍋の底を焦がすように熱していく。

 そうだ、この香りが重要なんだ。
 浮かんだ油も重要だ。
 麻婆豆腐に乳化は厳禁、器に盛り付ければ完成だ。

◇◆◇

 程なくしてわらわの前に熱々の麻婆豆腐が供された。
 キラキラと光る赤褐色の油が器の縁まで満ちている豆腐と挽き肉が織りなす景色の上に、刻まれたネギが緑の点々となって散らばる優美なものだ。

 匙を手に取り、ゆっくりと豆腐を掬い上げる。
 赤々と脂にまみれた唐辛子と花椒の豊かな香りと言ったらたまらない。
 
 口に運ぶ前に、一瞬だけ目を閉じ、深呼吸をする。
 そして、ゆっくりと一口――

 最初に感じたのは、豆腐のなめらかさ。
 滑らかな舌触りの豆腐が沈丁花のようにたゆたい、直後に対照的な挽肉の歯ごたえが適度なアクセントとなって口に広がる。

 味わいの第一波は、麻の味わい。

 山椒の痺れるような刺激が、舌先から口内全体へと広がる。
 それは痛みではなく、むしろ心地がよい味わいとなる。

 その刺激が収まる前に、唐辛子の辛さが後を追うように襲ってくる――辣の味わい、辛さは決して攻撃的ではない。

 むしろ、豆腐のまろやかさ、挽肉の旨味を受け止めて痺れと辛さが交錯する中で、多様な豆板醤の複雑な旨味が顔を覗かせている。
 発酵による深い旨味が、この料理に与える奥行きは大きい。

 辛い――辛いからこそ食が進む。
 二口目、三口目と進むにつれ、味の層が徐々に明らかになっていく。

 にんにくのパンチの効いた風味が嬉しい。
 生姜の清々しい香りが心地いい。
 ネギの瑞々しい食感がアクセントとなり。そして豆鼓の塩味が、それぞれの存在感を主張し始めるころ――妾は、唇の端からほんの少しだけ汗が滲むのを感じた。

 それは苦痛ではなく、むしろ心地よい興奮のようなものだ。
 体の内側から熱が湧き上がってくるような感覚に包まれるのは、それだけの熱量が料理に込められているからに他ならない。

 普段の家で作る麻婆豆腐とは違う。
 本格的な熱と油の饗宴がなければ、こうはならない。

「うむ、美味である」
 
 最後の一口を口に運び終える頃には、心地よい疲労感とともに、目の前にいる少年の料理に込められた真摯な思いが伝わってきた。ほのかな感謝と何よりも料理を喜んでもらおうといいう強い意志――神にとっては、これが何よりの馳走であることは説明に難くない。

 空いた皿が静かにテーブルの上に鎮座するのを見て、妾は静かに両手を合わせた。

――ごちそうさまでした。

 神としては不幸中の幸いと言ったところか、何か礼をせねばなるまいな――

◇◆◇

 神様が家にやってきてからというもの――
 俺の人生は文字通り一変した。

 いまいち人がこなかった店も、最近の町中華ブームの影響か。
 本格的な味わいが評価され、多くの客が訪れるようになった。

「うむ、麻婆豆腐セット一丁、青椒肉絲セット一丁じゃ」

 だが、一番の影響は家賃代わりに仕事を手伝うようになった、神様の影響が大きいのだろう。

 彼女の祠がいつ再建されるのかは分からないが――
 俺は今、幸せな時間を過ごしている。

お題『祠』 #ノート小説部3日執筆  

世はまさに大祠時代だ。
 猫も杓子も祠祠と、今や祠は一大ムーブメントを超え、生活必需品となっている。
 世の中のニーズに応え、最近は持ち運び用の祠も増えて、中には服を着せたり散歩させたりと皆が思い思いの付き合い方をしている。
 テレビではこんなCMも流れている。
 
 『はい~! 私もこの”発酵産品”の祠を買ってから毎日が変わりました! なんと……30㎝も伸びたんです!!』

 嬉しそうに笑う老婆の背中から箪笥が生えていた。そこから様々な衣服が次々と飛び出しており、それに応じて老婆は歓喜の涙を流す。
 このように祠は人の生活になくてはならないモノとなっており、誰もが祠を求めて、そして愛して生活している。
 留まる所を知らない祠の人気は海外が本場だ。そもそもの発信は北米のSNSからだったと推測されている。有名なインフルエンサーから始まった常識のブレイクスルーは、瞬く間に世界を駆け巡った。影響の大きさは政治にも強く反映され、常任理事国の半数が祠を母体とした政治団体が政権を握っているのが現状である。
 何と素晴らしい事に、祠のお陰でこの地球上で行われている戦争・紛争は一時的に休戦し、誰もが自国に帰り現地で手に入れた祠を広めている。
 さらに、何処の国でも問題となっていた食糧難や低賃金、失職率などの問題も祠一つで解決したのだ。何せ祠があれば解決するのだから凄い話である。
 ある難民は言う。

 『祠がこのキャンプに来てくれてから生活は一変したよ。2時間もかけて水を汲みに行く必要も無いし物資の補給のために兵士たちに頭を下げなくてもいい。子どもたちも退屈しないし、祖国の事も忘れなくて済む』

 難民たちは曇天の空に逆さづりになって笑っている。時折、細長い手が彼らを握り連れ去ると皆が大声で泣きわめくが、その顔は笑顔のままで誰もが幸せそうな顔をしていた。主は決ませり、主は決ませりと弔いの煙と共に赤い鯉のぼりが歌う。
 我々はもう貧困にも差別にも闘争にも病苦にも悩まない。祠があってくれたお陰で、幸福に満ち満ちているのだから。


 おめでとう! 本当におめでとうございます!
 我々は成し遂げました。人類は打ち勝ったのです。
 誰も連れて行ってくださいなんて言いません! ここは楽園成り得たのです!

 あぁ良かった。あぁ良かった。良かった。
 なんて素晴らしいんだろう。なんて素晴らしいんだろう。なんてすばっ


 【T大人類学部助教 藤木矢守の日記より抜粋】
 【■■■によ■■■■る、9月18日。■■祠■■■肉である。よってその旨をここに■す】

 私が熊埜のフィールドワークを終えたら世界が一変していた。誰もかれも話が通じない。私が正気である事を証明――いや、保つためにここに記す。
 最初に気付いたのはラジオだった。そこで奇妙な放送が流れていた。
 『祠』
 これを礼賛するような、まるで何か新商品を褒めているかのような話ばかりするのだ。
 最初こそは他愛のない流行り物だと思っていたが、聞いているうちにおかしい事に気が付いた。
 その『祠』は、食べ物のようでもあるし生き物のようでもあるし、はたまた乗り物でもあるかのような――つまり、”何なのか分からない”のだ。
 その時は興味もなかった。山から降りて家内に電話をした時の事だ。原文ママに記す。

 「さっき仕事が終わった。これから山を降りて駅に向かう。だから、今日の夜には家に着くと思う」
 「分かったわ。ねぇ、アナタ。帰りに『祠』を買ってきてもらっていい? 切らしちゃってて、明日の宣旨に間に合わないの」
 「な、なんだって? もう一回言ってくれ、何を買ってくるんだ?」
 「『祠』よ! 知らないの? スーパー行けば売ってるから! アナタだって以前はそれ着て私に会いに来てくれたじゃない、忘れたの?」
 「……『祠』って、なんだ?」
 「……本気で言ってるの? アナタ、仕事で山ばかり入ってるから忘れちゃったんじゃない? 汁で茹でた時、あんなに言ってくれたじゃない!」
 
 そう言われて、電話が切られた。何かしらの病気の可能性を思い、同じ市に住む娘に連絡を取る。

 「――というわけで、お母さんの様子がおかしいんだ、仕事の終わりでいいから様子を見に行ってくれないか?」
 「いやいやいや、お父さん。『祠』だよ? この間、みんなで行ったじゃん! どうしちゃったの?」
 「行った? 『祠』ってどこの祠だ?」
 「は? 信じらんない、柿だよ。冬にさー、どうしてもって言うから揃えたのに捨てちゃって。飛ぶんだよねー。お父さん。後藤さんには挨拶したの? 『祠』持って挨拶しに来てくれたのに」

 話が通じなかった。もしかしたらと思い、私自身が脳または心に問題があるのかもしれないと思い、見当識の確認を取るが問題ない(自身での確認になるので信憑性はないのが問題だが)。しかし、私自身の正気は私自身しか保証できないため、もどかしい。
 スマートフォンで『祠』について検索する。
 私は、目を疑った。そこに書かれていたのは、私の知っている……何と言えばいいのか、人類史――いや、”認識”と言えばいいのか。何もかもが違うものになっていた。
 
 例えば宗教。あの四文字の神は『祠』であると云う。
 例えば宇宙。地球の衛星の名前は『祠』であると云う。
 例えば医療。日本人の死因第一位が『祠』であると云う。
 例えば家族。家長制度の戸主の呼称は『祠』であると云う。
 例えば神話。イザナミが去った先は『祠』であったと云う。
 例えば農耕。クサビコムギと交配したのは『祠』であったと云う。
 例えば日本史。2・26事件に使われた凶器は『祠』であったと云う。
 

 私は今、何処にいる。此処は私の在った世界なのだろうか。私は自身が見ているモノが何もかも信じられない。
 試しに里の様子を見に行った。皆普通に過ごしているように見えたが、何も繋がっていない犬用のリードを引いて楽しそうに歩いている子どもや、何も持たない手の平をずっと楽しそうに眺める若い女を見て、危険を感じて急いで離れた。
 恐らくだが、長時間『祠』を見たり聞いたりすることで認識が歪むのだろう。何も分かっていない状態ではあるが、私はそれを【感覚器官を通じて感染する精神病】であると仮定した。この現代、小型の情報端末を誰しもが所有している時代ではあまりに恐ろしすぎる疾病だろう。あくまで仮定だが。
 潜伏期間や劇症化などはあり得るのか。時間経過で治癒するモノである事を祈るが……往々にして精神病は正しい投薬やカウンセリング無しに寛解することはない。一縷の望みであるが、それに縋るほかない。

 私は思う。何が原因かは分からないが、私たち――私たち人類は、『祠』に破壊されたのだ。
 愛おしい、我々が連綿と紡いできた人類という種は、命脈は、歴史は、『祠』に壊された。何もかも壊された。私は先人たちに申し訳が立たない。ありとあらゆる営みが否定され、我々の足跡は蹂躙し尽くされ、我が物顔に踏み付けされている。私はそれが許せない。
 私はもう、この山から降りない。私一人になろうと、人類を守り続けてみるつもりだ。

 それが――――私たち人類が『祠』に出来る唯一の罪滅ぼしだろう。

#ノート小説部3日執筆 「赤い鞠の絵」 

はい、はい。わたくしの手番ですね。と言っても、いっぱしの下級妖怪の話など高が知れておりましょう。

みなさま、『童話』と『昔話』の違いってご存知ですか?
話を作った人が分かっているのが『童話』で、作者が分からないのが『昔話』ですわ。グリム兄弟が作ったからグリム『童話』、誰が書いたか分からないから日本『昔話』ですわね。かく言うわたくしも、先月このことを知りましたの。
今日は、童話とも言えるし、昔話とも言える、不思議なお話を持ってきましたのよ。

むかぁし昔、山のふもとの村に、絵描きの男がおりました。精巧な絵を描く者でしたが、絵描きとしては無名でして、なかなか絵は売れませんでした。だから絵の具が買えなくて、いつも墨だけで絵を描いていました。

ある日、いつも通り眠っていると、どこからか不思議な声が聞こえてくるじゃありませんか。
『もし、もし、絵描きさん。お願いごとがあります』
目を開けてみると、お布団の横に何かが立っているじゃありませんの。姿は薄ぼんやりしていて、何かまではわかりません。ただ、子供の声でしたから、男は「幽霊か、はたまた狸でも化けてきたのか」と思っていました。

どのみち断る理由も無いので、男はお願いごとを聞くことにしました。
『絵を描いてほしいのですわ。真っ赤な鞠の絵、白い刺繍の』
「すまんねぇ、ウチは絵の具が無いんだ。色のついた絵は描けないんだよ」
『山に赤い木の実がありますわ。それを砕いて使うといいでしょう』

『どうか、どうかお願いしますね』
その言葉を聞いたあたりで、男は目を覚ましました。
夢にしては、やけに鮮明に覚えていたものですから、男はさっそく、山を登りに行きました。

山をちょっと進んだあたりに、確かに赤い実が生った木がありました。男はそれを、ちょっとばかり摘んで帰りました。
そうして作った絵の具で絵を描きますと、なんともまぁ鮮やかな赤が出ますこと。
その絵の具の赤と、墨の黒と、紙の白で、それはそれは精巧な鞠の絵を描きました。

絵を描き終えた男が眠っておりますと、またどこかから声が聞こえました。
『もし、もし、絵描きさん。絵を描いてくださって、ありがとうございます』
目を開けると、枕元には、赤い鞠が置いてありました。先ほど男が描いたその鞠に、とっても良く似ています。
『この鞠の絵に、描き足してほしいものがございます』
「へぇ、何を描けばいいかね」
『この鞠とおんなじ色の、真っ赤なおべべの女の子ですわ』

『どうか、どうかお願いしますわね』
そうして、また男は目が覚めました。夜中に見た鞠は、なくなっておりました。

男はまた山を登って、木の実を採って、また絵を描きました。
鞠が描かれているだけだったものが、赤い服の女の子が鞠をついている、そんな絵になりました。

その日もまた夜中に声が聞こえました。
『ありがとうございます。これで遊びに行けます』
不思議な言葉だなと不審に思いましたが、男は気にせず眠ってしまいました。
それ以降、夜中に子供の声がすることはありませんでした。

そんな男はある時、流行り病でぽっくりと死んでしまいました。村の者で簡単に葬儀をして、描かれた絵は箱にしまっておくことにしました。そして、その箱は村長の屋敷の蔵に置くことになりました。

ある時、村長の奥方が屋敷の庭を歩いていると、蔵の方から音がしました。
不思議に思ってそっと近付くと、茶色の服の女の子が、しゃがんで泣いているではありませんか。
「赤い鞠、赤い鞠、なくしちゃった、なくしちゃった」
あまりに不気味なので、奥方は村長を呼びに行きました。しかし、呼んで戻ってくると、女の子はおりませんでした。

そんなことが何回も続いたので、村長は蔵になにかあると思い、探し始めました。中の物には、特になにもおかしな事はありませんでした。
いろいろ探しているうちに、村長は絵描きの絵が収められた箱を見つけ、それを開いてみました。

一番上の絵は、くすんだ茶色の服の女の子が、同じようにくすんだ色の鞠をついている絵でした。
奥方に訊ねたところ、ちょうど同じような色の女の子が泣いていたようです。

もしやと思った村長は、町から赤い絵の具を買ってきて、それで色をつけてあげました。
すでに色を付けたものの上から絵の具を塗ったので、少しくすんでこそおりましたが、ちゃんと鞠と女の子は赤い色になりました。

その日の夜、村長が眠っていると、どこかから音がしました。声のようにも思えますが、にしては妙な音でした。
それでも耳をすまして聞いてみると、子供の声で何かを言っているようでした。
「ちがいます。もっとあかいいろ」
辛うじてそう聞き取れましたが、それ以外は分かりません。
そうこうしているうちに、夜が明けてしまいました。

次の朝、奥方が亡くなっているのが見つかりました。どうやら、何者かに斬りつけられたようですが、誰の仕業かは分かりません。盗人が入ったなら、なにか盗られているでしょうが、なにも無くなっていません。

奥方の部屋の端で、絵の具を乾かすために干されていた、鞠をつく女の子の絵に、飛び散った血が滲んでおりました。


……はい、この話はおしまいですわ。

さて、聞いてくださった方は疑問に思うでしょう。「これのどこが童話なのか?」と。
そうですね。教訓も無ければ、オチも面白みもありません。
ですが、これを作り出したのは、いち個人。童話の要件は十分に満たしていますわ。

えぇ、これは昔話というには難しいものですの。ある地方の昔話というテイをとった創作話。妖怪たちの談話会で語る内容としても、薄いものですわ。

でも、この話でしか語り継がれない存在がありますわね。
描かれた鞠と少女。そしてそれに関する事件。
この話は、これを伝えるため“だけ”のお話ですわ。
そもそも、最初に絵を頼んだのは、描かれた少女なのでしょうか?だとすれば、なぜ最初から少女の絵を頼まずに、鞠の絵を頼んだのか?
謎はたくさん残っていますが、そんなのは些細なものです。この話にとって重要なのは『鞠と女の子の絵が、事件を起こした』ということだけですから。

妖怪・フォークロアの皆様はイヤというほど分かっておりますでしょう。語り継がれなければ、いずれ消えてしまいます。
たとえ形が歪んでいても、誰かがほんのりと覚えてくれるなら、辛うじて生きていける。それが妖怪ですわ。

これを語り始めたのが誰であれ、
何百、もしくは何千という聞き手がいれば、この鞠の少女は“妖怪”として生きていけますわ。

……えっ、持ち時間オーバー?ふむ、仕方ありませんね。
それでは、お話はわたくし、『
赤井(あかい) 麻里(まり)』こと『妖怪 赤まり娘』がお送りしました。

童話 

『そして泡となって消えていきました』

 私は人魚姫が好きだ。人魚姫自体は好きではない、””人魚姫””という話の中で、泡となって消えるという点が、私の心を揺さぶるのだ。
 内容への感想は、せっかく契約を交わして自分のしたい事が出来るようになったのに、その機会を損失し、その上、再度姉妹たちからチャンスを貰い、人魚に戻るナイフを手に入れたのにそれすらも失う――無能の極みの物語だと思う。
 「――そんなに良いの? 恋愛って」
 無性に腹が立つ。帰りの電車……もう23時を回っており、まばらな車内で私は座席に座り、東京の夜景とガラスに映る半透明な自分を見ながらそんな事を考えていた。
 『キミ……これまで社会人として何やって来たの? 他のトコでバリバリやってるって聞いたから期待してたのに、教えなきゃこんな事も出来ないの?』
 昼間、クソ上司に言われた事を思い出す。私は今年の夏から今の会社に転職した――全ては年間休日と給与のため。その結果、私は今、無能の極みとして社会に存在しているのだが。
 会社にいない間は会社の事なんて考えたくない。非効率的な行為だ。自身でストレスを溜める様な行為は、自傷と一緒だ。考えるだけ無駄、考えるだけ無駄……いくらそう考えても――
 「…………はぁ~」
 ――頭の中で今日言われた嫌な事がリピートされてしまう。ドカッと椅子に座り直し、腕を広げ、揺れる電車の釣り広告を眺めた。
 電車から降りてからの帰路の途中、パンパンに膨らんだふくらはぎの嫌な鈍痛を感じて公園のベンチに座り込んだ。
 一刻も早く帰って今日の業務中に取ったメモをまとめたい。だけど、何だか足が前に進まなくなってしまった。足の疲れもあるが、何だか顔を上げるの辛い。私は座るというよりも蹲るに近い状態で、ベンチで動けなくなってしまった。
 秋の夜風が存外に寒い。顔は手で覆っているからまだマシだが、足やら首筋が寒く感じる。
 『いい歳してまだ結婚してないの? せっかくの若い時を有効活用した方がいいよ? オレくらいの年齢になると勃たないからさ~、アッ、これは雑談だからセクハラには当たらないからね? ……えーっと、有給ね。結婚すれば少し休めるからそれで休めば? 今回の有給はごめんけど受理しないでおくね~』
 怒り……というか虚脱感。人は絶望すると何事にも無気力になる。趣味も食事も、睡眠すらもしなくて良くなる。いや、””良く””はなっていない。正しくは手離す、だ。体温がどんどん夜の冷気で奪われていくがどうでもいい。本当にどうでもいい、全部。
 しばらく経ち、立ち上がった。僅かに潤んだ視界で、外の世界と対峙する。見えにくかった視界が晴れるにつれて、公園の出入口の近くにあるビルの看板が目に入った。
 そのビルは、ビルと言ってもたった3階建ての小さな薄汚いコンクリートで出来たモノだ。その側面に光るネオンの看板が付いていた。
 (あんなのあったっけ……?)
 記憶にない。そもそも最近、下を向いて歩いてばかりだったので気付かなかったのかもしれない。光に惹かれる蛾のようにそちらへ近づいていく。
 人通りも無いこんな時間に輝く看板は――【海の底】と書いてあった。青い看板に白く書かれた店名の横には、B1と書いてあり、地下で営業していることを示していた。
 汚いアパートのエントランスを思わせるビルの入口。赤いタイルの床と階段、確かに降りていく階段の先に【海の底】はあった。
 安っぽい木製の扉に掛かっているプレートに【海の底】と書かれており、申し訳程度に貝殻やヒトデの小物が張り付けてある。普段なら絶対に入らない、まずはここは何の店か――恐らくはバーかスナックか――分かっていないのに、私はどうしようもなく惹き付けられていた。まるで魔術的な誘惑、抗えない衝動に私は扉を手に掛けた。
 やけに重たい扉だった。しかし、少し隙間ができると途端に軽くなる。空気圧のせいだろうか、店内は暗く、青い間接照明がカウンターを照らしていた。
 おずおずと入る。しかし目が慣れず、ぼんやりとしか店内が見えない。カウンターの向こう側に居るやけに大柄な人影が私に気付き、私に声を掛けた。
 「――あら、いらっしゃい。珍しいわね。よく気が付いたわ~」
 男とも女とも知れない酒で焼けた声。その人物は暗闇の中、青く照らされた世界で黒いドレスを着た、性別も年齢も分からないナニカだった。というのは、太っている――というよりとにかく身体も顔のパーツも大きく、体の特徴では男女の判別はつかず、顔も濃いチークと大げさすぎるアイメイクで顔の原型が無い。肌も青く……そう、まるで””人魚姫””の海の魔女に似ていた。
 「ママ、ビックリさせちゃダメだよ。その子、困ってる」
 「そうそう、たたでさえ人が来ないんだから」
 カウンターの両端に座る常連と思しき2人が私に向かって同時に帽子を上げて会釈した。2人ともスーツを着ており、まるで古い映画のマフィアのような格好だった。
 「あらやだ、ごめんなさい。アナタ、とにかく此処に座って。ビックリさせたお礼にこのお酒呑んで。呑める?」
 勧められ、私はカウンターの真ん中に座った。客は私たち3人しかいなかった。
 「はい、呑めます。なんてお酒なんですか?」
 「carne de sirena……呑みやすいお酒よ」
 確かに、あまり酒が好きではない私でも呑みやすく、すいすいと呑めた。透明な見た目に反して甘いお酒だった。
 「――それで、何か悩みがあるの?」
 優しく声を掛けられ、お酒の力もあってか、今の悩みを全てぶちまけてしまった。
 パワハラされている事。人生が上手くいかない事。世間と価値基準が違う事。とにかく生き辛い事。全て話している間、ママも常連さんもただ黙って聞いてくれていた。
 「簡単よ、そんな悩み。楽にしてあげる。私の手を取って」
 そういうとママが私に向かって手を差し出してきた。黒手袋に包まれたその手を、私はこの苦しい現実から逃れられるのでは、と思い、握り返す。

 「――ありがとう」

 ママが金色の目で笑った。途端――


 あろうことか! あろうことか!

 手招く声在り。澪標、骨を失くした魚がぴちゃりぴちゃり。最早其は無く。
 喰らわれた骨は仏。塗仏の歯黒、大川にて流れる。疫して吐く息は瑞唱!

 焉くに逃げんや! あ々、成りたまへ!

 をこがる藤の花。肉の香となり雪と舞う。はだえ脱がせれば罪も消ゆ。
 憂いの涙は塩となりて、泳ぐ。腫れ上がる胞衣抉り抜き、ぼっちゃりぼっちゃりと。
 はしる!!
 [ソコの子ドコの子?]
 六根、六境、六識。ふるへ、ゆらゆらとふるへ。苦輪の目、舐め穿つ。

 わたしのあし、ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶる

 は~~~~れ~~~~~~~~~

 『そして泡となって消えていきました』
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