伊藤計劃の『ハーモニー』が健常性の論理を語る政治によって統制される身体を描きながら、そこで必ず発生するフェミニズム、クィアの課題を(キャッチーなセリフを残しながら)回避したことが論じられないまま『ハーモニー』が何かの原点のように(実際その状況をパロディした作品もあったけど)されてきてしまったこととの問題の多さよ……。というのも、もう過去の課題になってるのだろうし、これからやることはそういう課題があったことを忘れないで、むしろ可能性を考えることなんだろうか。今ある可能性の種はたくさんあるもんね。なんかこういうことを指摘する要員になり続けることに対して色々な葛藤があるこの頃。
『水星の魔女』のことを忘れたい!!!!!!!!!!!!!ぽんっ!!!