違う世界に沢山の遊び場があったことに、大人になってようやく気がついたんだ。そこには古タイヤの龍や高原の滑り台などがあって、俺たちは終わりのない子供として死ぬまでそこで遊ぶことができた。しかし、この場所にはいままだ私1人しか居ないかもしれない。いずれ私の遊び場以上の場所を所有する誰かに会う予感がするが、しかし、そもそも人間は本質的にあまり何かで遊ばないのかもしれない。遊ぶ誰かが偉いともまた限らないし、遊びに対しいつも社会は否定的な立場でいる。感覚のずれた場所にいつも、境界を無いこととして扱う世相がある。それは境界を感じ取れないのが当たり前の世の中としては当然すぎる話であるのだが、しかし遊ばないというのも辛いのではないか。偶には遊ぼうよ。そんな風に問いかけると、みんな薄暗い辛そうな顔をするから。俺はあまり最近はそう言えずじまいなんだ

@gizenchan 何で遊ぶかは人それぞれ~
なすーんも、あまりひとつの遊び場にこだわり過ぎないほうがよい。同じ遊びを反復していると、「遊び」ではなく「反射」になる。「遊び」には創造性が不可欠。「遊」には「歩き回る」という意味がある。回遊、遊学、遊星みたいに

@gizenchan 他のことが目に入らないとか言うなら、病院で薬をもらって、三連休の間、公園でぼーっとしているほうがよい~

どうなんでしょうね。長く、長く、色んな痛みが病の中に感じられて、唯一感じないのがこの『プログラミング』という遊びなんです。それはきっと、何かおれを呼ぶ誰かが向こう側にいて、俺に適切な休み方と遊び方を教えてるんだ。それはきっと他の人とは違う固有の休み方で、人間なんてみんな固有で独立なのかもしれない。

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@gizenchan 固有でいいと思うけど、長く遊ぶためには、程の良さも大事だからね。登山が趣味でも毎週登っていたら体壊すみたいな話~ おやすみ

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ありがとう。やさしいのだ。技術で長く遊んでるからかな。おやすみなさい

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