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ブロックやフェーブルらが歴史学の刷新に向けてがんばっていた矢先に、ポール・ヴァレリーは歴史家を非難する文章を発表していたとの事実が、舘コメントでは重視されていた。それはガクソットやアクシオン・フランセーズが中心となって仕掛けた右翼的フランス史がバカ売れしていた、時代状況に向けられていたものであったという。しかし現代日本の惨状と比較していえば、20世紀右翼の仏国史でさえ高踏的な内容であって、それこそ知的なものであるように感じられるのかもしれないのだが。

日曜日のシンポジウム、全体討論で成田龍一が「日本でのヴァレリーに当たる人物は誰か」などと、くだらない問いを発していたのだが、当日の舘葉月さんによるコメントを受けるならばむしろ、1930年代において「日本のガクソットに当たる人物は誰だったか」と問うたほうが余程マシなようにも思われる。ピエール・ガクソットは戦後アカデミー・フランセーズ会員だが、戦間期以来それこそずっとファシスト、そうでなければ右翼であろう。だが現在でもなお、「日本のガクソット」に当たる人物が生息していそうである。

れきけんシンポでは、羽仁たちのクーデタ問題に再三言及がなされていたけれども、どだい学問の場で機動戦が成功するという思い込みじたいが、当時のとんでもなさを物語ってあまりある。

毎回のように歴研に対して「総括」を迫る近代史の研究者氏、どれだけエラい立場に座ってると思ってるのだ。

今日の歴研シンポでいまひとつよくわからなかったのは、戦後になって羽仁五郎の存在が忘却された、との論。まったくそんなことは無かったはずで、歴史歪曲なんではないか。

土田が歴研で報告する時代になったか。しかもジェンダーで

文面の読みかた一体どうなっているんだ案件が、発生した。

世襲を禁止にできないのかなあ。権力の座はもとより私的所有の対象ではない。

およそ気遣いのできない研究者というのはいるものである。自分を棚に上げて言えば、ではあるが。

岩波新書の富永『トクヴィル』も、「明治革命」としている。いったいリベラルの人トクヴィルが、明治維新革命観を喚び起こすのかもしれぬ。

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九大何があった(記事に繋がらない)。

以上、逸見先生には申し訳なかったのですが、いまの私の抱いている危機意識のようなものをここに申し陳べさせていただきました。先行きは明瞭ではないように思われます。

フランス革命と明治維新よく似てるだろう論といえば、その筆頭は渡辺浩ということになるだろう。例えばこれとかが典型である。utp.or.jp/book/b305933.html

ブルジョワ革命としてのフランス革命を明治維新と比較する、なる旨の意味がいまだによくわからないままでいる。のではあるが、しかし例えば明治維新以後に変容した女性たちの運命、といったことを想起すれば、これをフランス革命と比較することにも重要な意味合いが見出せるようにも思われてくる。あるいは、内国植民地化された蝦夷地の運命と、独立をかち取ったハイチとを対比させる、など。

来年の年頭に、比較革命史研究会が大人数を集めてシンポジウムを開催する、とのことである。

世界史に対して関心がない歴史屋というような存在は、私にとっては、歴史過程そのものに関心がない向きのように思われてならない。

明日も労働です。ツイートみたいですが。

日本中が浮かれてるところですが、まあしかし、明日も労働します(日付が変わったところですが)。

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