@miyarisayu そうなのよね……。ほんとに読みづらい。織田の文章自体が、ほとんどコミュニケーションを拒否しているような文章になっている。
たぶん文章の物象化批判をパフォーマティブにやっているんだろうと思います。織田にとっては、意味が共有される仕組みこそが批判の対象だから、あえてそういう読みづらい文章になっているだろう、と。
@miyarisayu
ざっくりいうと、織田はダダ=シュルレアリスムに考え方が近いんですよね。
言語のシステム自体が戦争を引き起こすようなメカニズムを持ってしまっている。言語こそが共同幻想を作り出し、敵/味方という対立を生み出し、そして最終的には戦争を生み出すに至る。ゆえに、戦争を根本的に批判するためには、言語システムそのものを崩壊させなくてはいけない。ダダイストたちは、そういうふうに考えた。
で、織田においては、そういうダダ=シュルレアリスム的な考え方が、原爆もしくは敗戦の経験に重ね合わされているんですよね。つまり、あらゆる制度が物理的に破壊されてしまった、今まで信じて疑わなかった天皇制というイデオロギーが一瞬のうちに崩壊した強烈な体験が敗戦であって、それをコアに据えなければならないというのが、織田の基本プログラムなんですよ。だから、ラフにいうと、なにも信じてはいけないというのが織田 笑
@miyarisayu 球形工房の本には収録されているのは、織田のなかではけっこう読みやすい部類のテクストで、『窓と破片』所収の「戦後美術再構成の一視点」はほんと読めない。織田のなかで一番重要なテクストなんですが、まじでわからんです。「死者蜂起」「プロレタリア的物質直感の宇宙性」とか謎めいた概念が、がんがん出てくるから、一読を!
@seki_takanao 「死者蜂起」は出てきたよ。生者蜂起と死者蜂起を同時に起こさなければならぬ、みたいな話。なんとなく敗戦をちゃんと考えようのバリエーションかと思った。
@miyarisayu あと、ちょっとおもしろいので、織田の「タブローの物象化」批判についてついでに書いておきますね。
織田に言わせれば、本来タブローは、物々交換のような、違う精神と違う精神の間の、そのつどそのつどの賭けのような、何の根拠もない賭けのようなものとしてあるはずなのに、物象化されてしまっている、と。
たとえば、ピカソの絵には、美術史的にこういう意味があるというように権威のある美術史家によって解説されたりする。そうすると、自然と誰もがピカソの絵にそういう意味を読みるようになる。それが、織田がいう「タブローの物象化」。
つまり、織田が理想とする本来の芸術のあり方というのは、何か固定的な決まった意味が作品にあるのではなくて、そのつど絵を見る人が意味を読み取る賭けのようなものとしてある。安定した場所などは、どこにもない。だから、「ピカソ絵にはこういう決まった意味があるよ」とかは、織田に言わせれば、「物象化」であって、本来はそうあるべきではない、と。
@seki_takanao うーん。それって美術批評としては何も言えなくなってしまわないか。
@miyarisayu うーん、なんていうか、個として作品と対峙せよ、みたいな感じなんですよ。幻想を何も共有しない人たちとの間で生じる奇跡的な交換行為、何の根拠もない賭けとして作品経験がある、という感じ。
@seki_takanao 個人に立脚するところは、鶴岡政男について書かれたところからも、なんとなく分かる気がする。でも織田と織田的リベラルが力を持てないのは、結局は個人を超えたつながりを作れないからかもね。戦略がそのまま弱点になるという。
@miyarisayu そうそう。ほんとおっしゃるとおり。織田の思想は、運動として組織すること自体を拒否してますもんね。
@seki_takanao ふむー。球形工房の薄い本だとそこまでは感じないけども。