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自作文字という表現方法の存在をすっかり忘れていた

小学生のとき三人でそれぞれ創作文字と合い言葉を考えた

合い言葉の一部と、涙、悲しみ、泣くを表す文字、川の文字… 手をつなぐ文字もぼんやりと思い出した

わたしの文字は絵的な文字で
ひとりの文字はハングルに似ていた

10代のころ仲間とともに一度につづけて12曲全力で歌ったこともあった。
いまは1曲で息があがる。
歌うとほかのことができなくなる。
けれども言葉があったから詩いつづけられた。

わたしには あなたの当たりまえがわからない
心からの思いに表れる あなたの当たりまえを知りたい

わたしもわたしの当たりまえを表す😊
どうやって?  心を映しあって

わたしが流すのはぜんぶ手紙。
受けとれるだれかに宛てた手紙。 いつかのじぶんに宛てた手紙。

どの話題もつながっている。 ひとつひとつの投稿は、いつかどこかのタイミングで受けとるだれかに宛てる。
こころをこめて。

こころ たましい
たま(霊)/spirit みたま/h.s.
風 息 いのち

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口頭で同音異義語の気質と器質を区別するには?
気質はエネルギーの性質, エネルギーの方向性/文脈によっては心の向き, 心の働きかた
器質は「うつわ(器)の状態」と言い換えるのがしっくりくるけれどもう少し端的に言うなら
「からだの状態」で代用できるか

気質は器(からだ)ありきで、器のなかに流れるもの(息/いのち)あってこその器、ふたつが不可分である姿が自然とイメージできる「うつわ」の語が持つ音の響き。
うつわ
プシュケー
風, 二(ふう)…

(貨幣に求められた普遍性は、ほんとうに貨幣に必要な性質だろうか。変質する物質に信頼したところで人を養ってはくれない。物質自体に生かされるのではなく、物質を介して受けとる目に見えないものによってわたしたちは生きる。普遍の表現は、人の内に、人と人のあいだにもっとも表されるものか。)

人にもっとも必要なつながりを育むきっかけを創る道具。地域通貨は道具のひとつにすぎない。道具が人と人をつなぐのではなく、道具を介して流れる無形のものが人と人とをつなぐ。つながっているなら、道具は必ずしも必要ではない。

インフレの中にあっても、つながりがあれば飢えない。体も心も。人のむさぼりによってまた恐慌が引き起こされても不安を抱かなくていい。そういうつながりが育まれるように。心の安心と信頼が育まれるように。

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「お返し」の習慣についても説明できそうだ。aさんがbさんに貨幣をあげても物品をあげても総体はゼロ。bさんはaさんに「お返し」するも自由、cさんにあげるも自由。dさんと交換するも自由。すべておなじだから。総体は変わらないから。

ゼロにネガティブなイメージを持つなら、aさんがbさんにあげたものはプライスレス、計り知れない、と言い換えてみる。ほんとうはそうなんだ。ほんとうは「あげる」とは計り知れない愛を流す動きであるはず。

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すべてが理由。そして理由はひとつもない。生命は広がりつづけ、そして収束に向かう。つねに終わりと初まりが一緒にある。
そんな感覚があるから、総和が0ゼロ(ゼロサム)の地域通貨のありかたに感動をおぼえた。地域に限定されることで、貨幣の本質がわかりやすく示される。

貨幣は役目を終えたときに収束する。いいえ、人が意図した役目を果たしても果たさなくてもいずれ収束する。ひとりの人のところへ集まっても総体はゼロ。なんてすばらしい理だろう。

環境や器質をふまえないで「意思の弱さ」とか 心が弱いとか強いとか
そんな虚しい言葉は吐きたくない
そんな冷たい言葉は吐きたくない
そんな言葉はただの空虚

つねに理性の手綱を握り自由にたのしく翔ける子びとであろう

学生してたときのプリント。先生が学生たちをひとことであらわすコーナーがあり、わたしは「自然・読書・美術・声楽が好き。」と書かれていて、簡潔でわかりやすくてびっくり。じぶんではこのワードの並びにはならないから新鮮。

・前回、恋とか性とかについて話した友だちと友愛(フィレオ、フィリア)について穏やかに話したい。永続性のある友愛。友だちはどのように読んでいるのか。テーマにかけるわたしの熱意が熱すぎて、もうちょっとじぶんであれこれ表現して落ちつかせよう。

なぜ話に熱がこもるのか。
生物としての性や社会における性に左右されない心と魂のゆたかな友愛の交流が広く理解されないもどかしさでくるしい。

消化できなくてくるしいトピック。
・ニューエイジ系の潮流がほかの流れとどのように混淆しているか、観測しているひと(なにかしらの伝統宗教の型を学んでいるひと)と互いの視点を持ち寄って穏やかにシェアし合いたい。耳で聞きたい。

「(身体的に)たくさん涙を出して(心の)傷は閉じた。」を東洋医学の視点で見ると、「水出し」「水毒の解毒」にあたると思う。からだと心のつながり。

痛みがあるところにみずからが気づいて「目を向けて」「手をあてる」のくりかえし。

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わたしの話つづき。 

たまたま気になった作品を読んでいるとき思いがけず「こんな傷がまだあったのか!」というわたしのなかの開いた傷との出会いがあった。主人公と母と義母の描写をとおしてわたしの眠っていた傷が開いたみたいだった。たくさん涙を出して傷は閉じた。その流れで『サナギさん』を読んだのが一昨年のこと。母のこと親のことで深手を負っているたいせつなひとたちにこの作品を知らせたいけれど、ヘビーな内容も含むからなんと紹介したらよいかなあと思っていて、今日やっと紹介する。
いまも「母はなぜこういう振る舞いをするんだっけ…」と首をかしげることは多い。サナギからひとりの人になっていった「渚さん」のように母がひとりの人として自由になった姿を見てみたい。わたしも母も変わりつづける。

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ここからはわたしの話。 

ここからはわたしの話。高校生のときにそれまであまり語られなかった母の育った環境について母から直接聞いて「母も大変だったんだ」との気づきから、母と「一般的な母像」を切り離し、「ひとりの人」として、ひとりの「aさん」として見れるようになったこと。ある朝、わたしも人も絶対的にあいされていることが頭だけでなく体験として腑に落ちたこと。そんなこんなが基盤となってどんどん傷が癒えていったけれど。

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サナギのようになってしまった「渚さん」の物語。比喩たっぷりに繊細に描かれた良漫画(コラムあり)。 

サナギのようになってしまった「渚さん」の物語。比喩たっぷりに繊細に描かれた良漫画(コラムあり)。 『毒母育ちのサナギさんの脱皮』
本山理咲/星和書店
seiwa-pb.co.jp/search/bo05/bn1

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