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「ワイドスクランブル 成田」でTwitter検索して、同様のことを考えていたらしい人々のご意見を拝見しつつ近代化の終焉と国家の衰亡に思いを馳せる憂鬱な午後、僕には仕事以外の予定がありませんでした...

成田悠輔についてのひろゆきのコメント、慰安婦と引っ掛けて右派の動員を狙うあたり相変わらず姑息だなとは思ったんだけど、他方でひろゆきのような人でも付き合いのある人はちゃんと守るんだなというちょっとした驚きもあった。

"Korn - 'Sabotage' Featuring Slipknot live in London 2015" を YouTube で見る youtu.be/ttdZjL5NWCc

『アヴァロン』もゲームのログインにこんなに長いパスワードが...とインターネットが普及し出した頃のことを思い出したけど、『ビデオドローム』に至っては完全にインターネット以前の世界で、メディアに対するリテラシーも牧歌的。そもそもスーパーハイウェイ構想がクリントンの時代の産物で、日本でも大学等一部研究期間しかネットにアクセス出来なかった事実がもう半ば忘れられている感もあるけど、『ビデオドローム』にもケーブルテレビのネットワークを通じて、未知の誰かとつながる予感のようなものはある。インターネット以前の世界がひどく遠くなってしまったな、という感慨。

押井守の『アヴァロン』を挟んで『ビデオドローム』を見たけど、『アヴァロン』の画面の薄さはクローネンバーグなんてもんじゃなかったよ。ただあれ2001年なんだね。『イグジステンズ』の2年後。そうすると『攻殻機動隊』や『マトリックス』に先を越されて『イグジステンズ』が時代遅れになってたって風評はかなり怪しい気もする。そもそも別のジャンルだっていうのは前提としても、内容的にも、技術的にも、当時の先端文化のレベルはあんなもんだったんじゃないかな。

映画の「フレーム」-ヒッチコック『めまい』を中心に―
cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN9/us

再現-表象を中心とする古典的物語映画におけるモンタージュは、あるショットにおいて想定される画面外の世界(他の人物の視点、見られた対象から想定される見る人物の位置、諸々の人物・対象相互の位置づけなど)を補うことで、むしろわれわれ人間の知覚と世界との関係が限定的であることを認め、一個人が知覚・行動するだけでは得られない世界空間を、総合的に構築する技術であるといえるのである。

ヒッチコックと比べてクローネンバーグの画面の外には何もない、なぜなら画面の中に何もないから、というゴダールの評言について、ヒッチコックで画面の外を感じさせるのは『めまい』が典型で、画面の中にあらかじめ外部として想定されていてそれとつながるような言葉や動作、身体等の形象がある。(同作はまたその性質から精神分析的な解釈を呼び込みやすい。)

"Beastie Boys - No Sleep Till Brooklyn (Official Music Video)" を YouTube で見る youtu.be/07Y0cy-nvAg

クローネンバーグ自身はホラーについてこんな言葉を残していますね。「肉体こそ、恐怖の中心を成すものだ。人間は、恐怖の中にある”本能的な何か”から逃げ出すことはない。肉体の認識、しいては死の認識こそ、ホラーの源泉なのだ。」

以下は参考。
1999年のデヴィッド・クローネンバーグ。『イグジステンズ』
thecinema.jp/article/818

a History of Horror Films ’80s(1/2)/文・平倉圭
クローネンバーグのヌチョヌチョした肉体。
popeyemagazine.jp/post-43227/

ばらばらになった身体 | 展覧会 | アイエム[インターネットミュージアム]
museum.or.jp/event/29187

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クローネンバーグの『イグジステンズ』を見直した。80年代の肉体破壊の美学に連なる作品には違いないけど、後継のフェティッシュなホラー消費(「切株」派とか)とは一線を画すような根拠に対する飢えと意味の追求、あるいは放棄がある。リアリティと死を通して繰り広げられる、タイトル(eXistenZ)が明示する通りの、存在論的な不条理劇といった趣きで、破壊されるさまざまな生物の肉体もゲーム機本体や手製の銃のパーツとして再利用されている点が出色。バイオポートという呼称に象徴される娯楽のための人体改造に加え、その「脊椎に穿たれた穴」を通じて虚実を行き来する主人公他の虚ろな存在感。ゲームの中、工場や中華料理屋で、ジュード・ロウとジェニファー・ジェイソン・リーが実際に関わることになる生物の破壊と改造と再利用にしても、彼ら自身がとうに「改造」されているという事実を踏まえて見られるべき。人間を含む生物のあらゆる肉体が改造され、かつあらゆるものが「生物の死骸の一部」でできている世界。しかしそれは紛れもない真実で、私たちの生きる現実のちょっとした誇張に過ぎないものかもしれない。日常生活のあるゆる隙間に潜む具体的な「死」の兆候に目を向けること、それがクローネンバーグが追求するテーマだろう。最早ホラー作家とは言えないかもしれないけれど。

言表行為に限った話じゃないけど、たとえ言葉一つでも、社会を作るのは無理でも壊すことは可能だと思っている節が自分にはあり、人々が自分の行為の持つポテンシャルに無自覚であるが故に、往々にしてその力を遠慮なく使ってしまえることがわりと怖い。そんな中で、自分ができることは何かって考えると、引き算なんだ。勘定から自らを差し引くこと。

最近社会と社会の有り様に対する自分のリアクションに関して思うことは、比喩的に言うと一種の「トランプタワー」で、これまでまがりなりにも積み上げられてきたものがあって、きわどいバランスでなんとか成立してるんだけど、ちょっとした物音で今にも崩れ落ちそうな気配があると。そこで、なるべく自分からアクションを起こして振動が伝わらないようにしている感じ。そういう意味じゃ僕は人々の力を信じてる。作るのには途方もない時間と労力がかかるけど、壊すのはほんと一瞬。

それはそれとして、スシローの件については、その後の顛末(本名等晒しによる私刑制裁)まで含めて、罪を犯すハードルの低さとは対称的に、なんとも後味の悪い話だなと思っています。

未成年の場合、本人の犯した罪の責任を親が負うって考え方、ちょっと理解し難い。一定時間が経過したらそれだけで責任が発生するっていうのがそもそもおかしいと思う。知識や分別は行為の主体性にかかわるけど、時間の経過は知識の増加を必ずしも意味するわけではないし、思慮分別は必ずしも知識の増加に比例するわけでもない。第一、罪を行為の主体性に基づいて量刑するなら、無自覚な犯罪にはむしろ刑罰を重くすべきだと思う。

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