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「コミュニケーション苦手」組だし、言われたまんまなので、それを引き受けてそのように分類されていよう。

基本は独り言。

「笑い」って、マウントとるときにもめっちゃ使われるので。

「何を笑うか」について、きちんと言語化しようとしている人たちがライターの中にも一定数いる。それを見ていて自分が少しほっとするのは、逆にこの辺りの危険度について気づく人が増え始めている兆しを感じるからだろうな。

prajna13 さんがブースト

それから"笑い"。
自分もライブをやっていて強く感じるのだけど、笑いを起こすとお客さんの壁が一気に崩れるんだ。それまでは「どんなバンド?」と少し距離を置いて様子見しているようなお客さんでも、MCで少し笑いをとると一気に距離が縮まる。壁が壊れてお客さんが近づいてくれる。その後はラクだ。場がなごみ、親近感を持ってくれるから、何をやっても盛り上がるようになる。お客さんが一体となる。だからボーカルはMCの技術を磨く。
"笑い"は人の警戒心を解き、気持ちを前向きに押してくれる。そこにいる人たちを結びつけてくれる。だから人は"笑い"を好む。そして笑わせてくれた人にカリスマを見るようなる。その人の言葉に笑った時点で、笑う人は笑わせた人のシンパとなる。笑いをくれる人を嫌う人間はいない。

自民や維新がよしもとを重用する理由はそれだろう。"笑い"の研究に人生を捧げてきた人たちだから。笑うことには知識も専門性も信念も何もいらない。面白ければ笑えばいい。誰でもできる。専門家を、研究者を、苦しむ人を、国を憂い怒る人を、笑ってしまえばそれで済む。「笑いごと」になるから。よしもとの芸人たちはそれを操るプロだ。

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設定された場面でどう振る舞うのが一番効果的に伝えられるのか、、は、その時の場によって違う。

俳優や芸人はその場の空気を支配できるタイプの技術を身につけているので、政治には引っ張り出されたり利用されたりするんだろうな。

やな話。

興味のない人にどうやったら伝わるか、は考えた方が良いとは思うのだけど、スポイルしちゃうのも違うので、良い塩梅が難しい。

prajna13 さんがブースト

自分の界隈で時々聞く話。「左翼さんたちの言うことはわかる。正しいこともそれが大切なこともわかる。だけどそれを直接大きな声で訴えられると押し付けられているようで疲れてしまう。決定的にセンスがない」
これは恐らくデモの際のシュプレヒコールや替え歌(?)を指しているんだろう。Twitterでも何度も見たが、政権批判の替え歌を拡散していたり、憲法にメロディーをつけたり、「これを聞きましょう」と言ってしまったり。
難しいんだよね。「いいものは、大切なものは、みんな聞くに決まってる」という純粋な思いがある。が、人間はそうとも限らない。お説教はみんな嫌がるものだ。どんなに素晴らしい内容でも。
「いいものは売れない」なんて言葉もあるくらいだ。

芸能人は直接伝えない。受け手に投げる。少しだけ匂わせて「後はあなた次第」と空中に投げてしまう。と、受け取った方はそこに自分の思想を乗せる。方向は最初の匂わせでつけてある。受け手はその延長線上に思想を乗せる。が、"自分の思い"がそこにあるから、それは"自分の思想"という強い信念に変わる。右派に取り込まれた芸能人がやるのはそれだ。かなり手強い。

99%は本当のことを言うんだけど、最後の1%で変な方向へ誘導する、みたいな事をテクニック的にやる人はいるので、そういう人の言うこと・態度は見極めようね、ってずいぶん前に人から教わって、心に留めている。

prajna13 さんがブースト

ネットワークビジネスのセミナーとかでもそうなんだけど、スピーチが上手い人は笑いを効果的に取り入れるのね。喋りがスムーズなだけじゃなくて、笑いで緊張をほぐす。で、聴衆はそれだけで信用してもいいかなって気になっちゃう。本質を巧みに隠して、「この人の言ってることは間違ってないな」っていう気にさせる。
人の「人を見る目」なんてその程度のものでしかないから、他人の「この人は信用できる」なんて言葉は全く信用できないんだけど、だからこそ本音を隠したい政治家もこぞって利用する。
「今喋ってるこいつはどういう目的で話しているのか」ということを冷静に見極めないといけないんだけどね、それには知識と訓練が必要だったりする。
だから芸人を使ってマイノリティを嘲笑しつつナショナリズムを煽り自分たちの権力と利権を保持するような政治家たちはえげつないことしやがるなって感じるよ。

「強い/弱い」とかもある一つの尺度でしか見てない事が前提の相対的なものに過ぎないのに、その尺度を絶対的なものだと決めたのは誰なのか、何に染まっているのかという話でもある。

何かにつけて「勝ち/負け」という言葉が文の中に入ってくる人がいるのだけど、それもなんかちょっと違う気がしている。

正論を聞くと自分の中に罪悪感が生じるし、責任も発生しちゃうので、正論聞きたくないんだよたぶん。

それより、弱い誰かの自己責任へと転嫁してる方が楽なんだろう。

演じているうちに、演じているものに乗っ取られてしまうみたいなこと

実被害は認めないけど、被害者意識だけは強く、すぐに「仕方なかった」と言うのが習い性になってしまっていて我慢する。
自分自身を大切にしない/出来てないが世間一般のデフォルト過ぎるので、批判したり不満をいう人を「ワガママ」扱いにするのだろう。

自分の声を消すのだけは上手い。

意図的にやっている人、それが手っ取り早くその人が何かを手にするための手段になってるからそうするのかもしれないし、ほかにも理由はあるのかもしれないけれど、私はそういうのは要らない。

ゆえに、そのような動きをしている人には敏感に反応してしまう。

そこから自分の足で出て行くことが出来ると知っているなら良いけれど、それしかないと思わせる/思わされているなら、それは違うと思うよと伝えたい、そのように表現しておきたい。

個人の話に還元するなという物言い、最近すごく暴力的に感じるのはそこ、個人個人がそれぞれの物語を自分なりに生きているという前提が否定されていること、「役割」だけをのどの奥に流し込まれて「呑まされる」事への怒り・憤りみたいなものが自分の中にある。それは誰か対象のある個人に向けた怒りではなくて、それを飲み下すことにしてきた自分に対する怒り・憤りなのかもしれない。

NHKのドキュメンタリー番組きっかけと、自分自身の事があって、トラウマの本をここ数年固めて読んできたのだけど、戦時性トラウマや複雑性トラウマの本を読んでいくにつれて、個人だけの話ではなくて、社会全体の反応が型にはまるのはここじゃないのかみたいな感覚が拭えなくなっている。

3~4年ぐらい前からずっと考えているけど、日本って戦争で「負けた」と認識できず、傷ついていることすら見ないことにして嫌悪しているので、その結果、また加害する形で次の被害者を作り出して加害もするしの連鎖になるし、その痛みから逃れるために何かに依存症的に浸って麻痺させたり、回避行動や乖離させたりみたいな行動に出るのではないかと思う。

病んでる、と診断を下せばまだなんとかそこから回復のプロセスを辿ることが出来ると思うんだけど、それらを「無かったこと」にするので、余計に固着して治癒しない。

prajna13 さんがブースト

これは必読

・「被害を認識できないと加害者になってしまう」という連鎖

・「被害を認識すること」と、「被害者意識を持つこと」は全く違う

・強さとは「助けを求められること」

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