ダサさとサブカルの話
そもそも何かを良いと感じたり発見した時に、それそのものの良さを(言語化できなくても)感じることが出来たならそれはとても幸せなことだし、良さとは何かを経験・知識として積み重ねてきた状態ならば気付ける良さもあって、感受性は自分で守り育てるしかない。一方で育てるにもぼくのように感性が鈍い人間はその土壌としてメインストリームとされているカルチャーにまずは期待するんだけど、渦中で他の人はこれを「好き・嫌い・ダサい・クール etc.」みたいに評価するのかと知り、自分の感覚との差分を面白がることから自我の芽生えが始まること場合があることを考えると、サブカルチャーが見えづらい今は「育てづらい」感じがする。