某ツイートに関して。
多分「空気読めない」には「文字通りにしか認識できない」と「自分の解釈でしか認識できない」とあるのだが、「空気読めない」イコール「文字通りにしか認識できない」ということだという理解が一般的に強いせいで、単に「自分の解釈でしか認識できない」人が「空気読めない」と言われた時に「自分は文字通りに認識してしまっている」と誤解しているのでは、と思った。
その場合、結局「文字通り」には読めてないけど、「自分の解釈」とは「文字通りに読んだ結果」だと信じているのかもしれない。
テキストをテキストとして読むというのは、「自分の解釈」を我慢して脇に置くということであって(と私は理解していて)、「自分の解釈でしか認識できない」型の「空気読めない」人はテキストをテキストとして読むことも困難だろうと感じる。
でも、「自分の解釈でしか認識できない」というパターンなら努力でなんとかなるはずだ、と言っていいのかどうかはわからない。
あと、そもそも誰だって結局は自分の解釈で認識してるだろ、真の客観性なんてない、すべては偏見だ、という見方も正しいと思うけど、そうであるにしてもこの社会では「自分の解釈を伸縮させられる度合い」はある程度以上に高めることを求められていて、「伸縮したところで偏見だ」というそもそも論は「自分の解釈が固定的であっては読み間違う」という現実を無視していい根拠にはならない。話の層が違う。