レズビアンやゲイの場合は、それ自体で恋愛的指向+性愛的指向といった意味を持ち続けるとしたら、代わりに引き算がおこなわれる。「ゲイでアロマンティック」「ゲイでアセクシュアル」というように、持たない要素を引くことになる。
すると、LGBは素直にそのまま並列表記が成り立たなくなるだろう。
本来は、Aceが「もたない・ない」ものを細分化して説明するより、これまで「好き」をザルにしてきたヘテロ規範こそが真っ先に問われなければならない。
ヘテロのいう「好き」は、何も「恋愛的指向」と「性愛的指向」に大別されるだけではない(そもそも両者が厳密に分けられはしない)。
例えば、家族になりたい、ずっと見ていたい、手を繋ぎたい、キスしたい、もっと喋っていたい、セックスしたい、電話したい、死に際にそばにいて欲しい、などの無数の「好き」が、一貫して同じ性別の相手に注げると思うヘテロ規範こそが、一体何のプロパガンダなのか?と問われるべきだ。
この細分化をセクマイのコミュニティを起点として、その内部のアイデンティティ確保にために行われるだけでは結局のところ生きづらい。全然ダメだ。
言葉のあやだったとしても、AROやACEのあり方を「引き算」と表現するのは、当事者としては微妙に感じる。>BT
Aロマンティック・Aセクシュアルスペクトラム上にいる人たちは、あるべきものが「ない」と理解されることが多いけど、むしろわたしたちの視座からすれば、恋愛や性愛がなくても人生は「完全」なので。
Alloロマ・Alloセク(AROACE以外の「ふつう」に恋愛やセックスをする人たち)の世界は、むしろ余計な「+α」を求めてるように見える。
AROACEの観点から解体すべきものとして真っ先に異性愛規範が挙がるのは完全に同意だけど、同時にセクシュアルマイノリティであっても、Alloロマ・Alloセク(ゲイ・レズビアン・バイセクシュアル・パンセクシュアル)の人たちはAROやACEに比べてマジョリティであることは忘れないでほしい。
「LOVE IS LOVE」というスローガンに、恋愛や性愛を前提としない「愛」は含まれているか。
クィアコミュニティのなかでさえも、恋愛やセックスが自明視される風潮があるために疎外感を感じるAROやACEは多い。
ここは使いやすいけど、「みんな」がいるわけじゃないのが難点だ。
quoiromantic/ace 百合 鉄道