強く胸をブチ抜かれるような強烈な感動は、即座に言葉にして放出しないで自分の中に留めて何度も反芻することでよりその感動味が深まったり、歳月と共に少しずつ自分の感性も変化するに従って自分だけのかけがえのないものになるんじゃないかなと思うことがあります。大切なものほどそう。自分の中にあった時は完全なかたちをしていたのに、口にしてしまったら途端に違うものになってしまう。しゃべると魔法が解けてしまうような。
そうは言っても言葉にして伝えないことには何一つ他人に伝わらないので、感動を分かち合いたかったら出力するしかないのですが、どうしてもこの感動を無理とかエモとかの安易な単語に納めたくないのです。それはもっと、もっと、ずっと、大きくて巨大で速くて輝いていて甘美で大海原を割るようなパワーでできた何かなのです。あぁっもどかしい。
「承認欲求」について思うこと
何か特別な出来事があったわけではなくて、あくまで一般論です。
「承認欲求」という表現があります。誰かから褒められたり、SNSでバズったり、様々な場面で「承認欲求を満たす」という表現が使われます。
その言葉自体は、良い表現でも悪い表現でもないと思うのですけれど、しばしば承認欲求を満たすのは悪いことというニュアンスで語られることもあります。
私自身は「承認欲求」は、とても広い範囲に当てはまる言葉であって、それだけで善し悪しを論じるのはできないんじゃないかと思っています。
つまり、承認欲求だから良い、承認欲求だから悪いのような単純な主張はできないということです。
たとえば職場で誰からも無視されているような環境では、寂しく辛い思いをするのは当然だと思います。そのときに、周りの人から適切に声をかけてもらいたい気持ちを「承認欲求だから悪い」などとは言えないでしょう。
あるいはまた、苦労して作った作品を誰かに見せたときには何らかの反応を欲しいと思うのは人情です。それを「承認欲求を満たすため」とくくるのは乱暴だと思います。
問題となるのは、おそらく、承認欲求を満たすために手段を選ばないとか、自分の承認欲求のことだけを考えていて、他人の承認欲求を考えない態度ではないかと思います。もちろんそれだけではありませんけれど。
そして、そこまで考えをブレイクダウンしていくならば、承認欲求かどうかが問題なのではなくて、他の人との関わりを適切に保っているかという、より根源的なところがポイントではないかと想像します。
承認欲求という言葉があるせいで、自分の中に浮かんだ感情や思いを丁寧に吟味することが難しくなるケースがあります。
つまり、寂しいなと思ったときに、すぐ「これは自分の承認欲求だ」のようなレッテルを貼ってしまう危険性のことです。
あるいはまた、作品を作って、他の人に見せたいなと思ったときに「これは自分の承認欲求じゃないか」と考えてしまう態度もやや危険ですね。
おおざっぱな言葉、意味が広い単語が出てきたときには、その単語を使って反論したり、単語を直接の擁護したりするのではなくて、丁寧にその内容を吟味することが大切じゃないかと思います。
どういうことかというと、自分のこの気持ちは承認欲求なのかなと感じたときに、承認欲求だから良い(悪い)のだ、なぜならば…のように考えを展開するのをやめるのです。
いったん「承認欲求」のような言葉を捨ててしまって、「丁寧に考えてみると、それはどういう気持ちなのかな」のように思いをめぐらせるのです。
特に、自分に関しては、その作業を丁寧に行う価値があります。なぜなら、他人の内面については、細かく吟味することが難しいですけれど、それに比べたら、自分の気持ちを掘り下げて考えるほうがずっと楽だからです。
そして、自分の心に浮かんだ感情や考えを丁寧に取り扱うこと自体が、自分の心を安定させる役に立つことはよくあります。自分の考えだから良いとするのでもなく、自分の考えだから悪いとするのでもない。すぐに評価しようというのではなくて、自分をもっと丁寧に取り扱ってあげようという態度のことです。
自分自身を過大評価するのでもなく、過小評価するのでもなく、いったんそのまま受け止めてみる。評価したかったら、その後ゆっくりやればいいことです。
そのような、自分を丁寧に扱う態度は、それこそ自分の「承認欲求」を深いところで満たすのではないでしょうか。
そしてまた、他者に対しても同じような気持ちで丁寧に接することができるなら素晴らしいですね。
それは「自分を愛するように、他人を愛する」ことにつながっていく第一歩ではないでしょうか。
オラァいおりくがでぇすきだ