しかしだ。もしアドラスがフランス語から輸入されてから豊かな響きを得られるのであれば、この語に人為的に置き換えられた別のドイツ語にもまた豊かな響きが付与されるだろうし、アドラスという語がまた復活することがあれば、一時期人為的に使用を禁止されたという歴史もまたニュアンスを添えるだろう。クラウスはそういう未来方向の豊かさについては考えられなかったのだろうか。
クラウスの影響を受けたと言われるベンヤミンは翻訳という行為を肯定的な意味で、かつまた不可避であるという文脈で「裏切り」と呼んでいた。また「宛先」というキーワードで思い出さずにはいられないデリダは、この件についていかにも何かを書いていそうな気がする。というか、僕が読み落としているだけで、古田もだこかでこのことを書いているかもしれない。
ちなみに古田によればクラウスは、言語純粋主義者の言語理解を「交通のようなもの」として捉えている、と指弾する。言語は交通のようなものではない、とクラウスは言っている、と古田は書いている。しかしそもそも「交通」は(クラウスはもちろんこれをドイツ語で書いてるわけだが)、柄谷行人がマルクスの用法に執拗に注目したように、それ自体「豊かな響き」がある言葉である。もちろん、クラウスが用いた「交通」という言葉はそういう意味ではない、もっと限定された使い方だ、と捉えることはできる。しかしそれはむしろ言語純粋主義者的な態度ではないのか。
あと、これはウィトゲンシュタインの用語なのでめくじらを立てるべきではないかもなのだが、視覚障害すれすれのところで生きてる人間としては(それでも「読める」ように電子化してくれてることには感謝はするものの)、「アスペクト盲」概念の本書での扱いは割と神経を逆撫でされるところがあった。じゃあどうしたらよかったのかというと、代案は思いつかないのだが。