古田徹也『言葉の魂の哲学』感想、備忘メモ。

「言葉の魂」という概念はかなり興味深い。

本書のクライマックスに置かれているクラウスは、「日本ではあまり知られていないけれど、ベンヤミンやウィトゲンシュタイン、アドルノらに影響を与えた」みたいな感じで定期的に参照される人物。日本の宮武外骨みたいな感じなのだろうか(外骨の影響下にある有名人を自分は知らないが)。
そのクラウスが、言語純粋主義者を批判しているという話。クラウスが批判しているのは、たとえばドイツ語からフランス語由来の「外来語」を駆除しようとすること。日本でも野球の「ストライク」を「よし」に言い換えるべきみたいな時代があったらしいが、ドイツにも似た主張をする人がいたそうな。
クラウスが批判している言語純粋主義者は、たとえば「宛先」を意味するドイツ語「アドラス」がフランス語由来であることを理由にドイツ語に置き換えろと主張する。しかしアドラスは単にフランス語由来なだけではなく、ドイツに輸入されてから帯びたさまざまなニュアンスがあり、アドラスという語に豊かな響きを与えている。これを別のドイツ語に置き換えてしまうと、「豊かな響き」が失われてしまう、とクラウスは批判する。

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しかしだ。もしアドラスがフランス語から輸入されてから豊かな響きを得られるのであれば、この語に人為的に置き換えられた別のドイツ語にもまた豊かな響きが付与されるだろうし、アドラスという語がまた復活することがあれば、一時期人為的に使用を禁止されたという歴史もまたニュアンスを添えるだろう。クラウスはそういう未来方向の豊かさについては考えられなかったのだろうか。
クラウスの影響を受けたと言われるベンヤミンは翻訳という行為を肯定的な意味で、かつまた不可避であるという文脈で「裏切り」と呼んでいた。また「宛先」というキーワードで思い出さずにはいられないデリダは、この件についていかにも何かを書いていそうな気がする。というか、僕が読み落としているだけで、古田もだこかでこのことを書いているかもしれない。

ちなみに古田によればクラウスは、言語純粋主義者の言語理解を「交通のようなもの」として捉えている、と指弾する。言語は交通のようなものではない、とクラウスは言っている、と古田は書いている。しかしそもそも「交通」は(クラウスはもちろんこれをドイツ語で書いてるわけだが)、柄谷行人がマルクスの用法に執拗に注目したように、それ自体「豊かな響き」がある言葉である。もちろん、クラウスが用いた「交通」という言葉はそういう意味ではない、もっと限定された使い方だ、と捉えることはできる。しかしそれはむしろ言語純粋主義者的な態度ではないのか。
あと、これはウィトゲンシュタインの用語なのでめくじらを立てるべきではないかもなのだが、視覚障害すれすれのところで生きてる人間としては(それでも「読める」ように電子化してくれてることには感謝はするものの)、「アスペクト盲」概念の本書での扱いは割と神経を逆撫でされるところがあった。じゃあどうしたらよかったのかというと、代案は思いつかないのだが。

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