「マストドンを忘れて生活する」ってことがマストドンを楽しむ一番の方法だな
忘れながら生活している中でなんか思いついたらそのタイミングで「あ、これマストドンに書き込もうかな」なんて思うくらいがちょうど良い
KPIを無視するなんてこと言ってるインフルエンサーの人がいたし目標とかあとはある程度ルールとかを忘れて生活してないと楽しく生きられない

「忘れながら生活する」これ結構大事だな
もしかするとそういう目標とかタスクとか場所(この場合はマストドン)を強く意識し続けること自体が自由な思考をするための脳のワーキングメモリを占拠して圧迫してしまうのかもしれない

おは


すっごい良いこと思いついたんだけど眠くて上手く文章に落とし込めないな…

というかあまりにもセンシティブというかプライベートというか心の奥底の話過ぎてどうまとめようか迷う

今日書かないと一生投稿気がするので簡単にここに投稿しとこうと思うわ

・手の内を明かす過程は楽しい
・けど手の内を明かしきったらそれを閉ざす時間が必要
・「風」はいつ吹くか? それは「温度差」がある時に吹く
・7月とか8月とかに俺がマストドンを初めて始めてあの時JP鯖で調子良かったのはなぜか、(主観的に)勢いづいていたのはなぜか、元気だったのはなぜかって考えたらそれは「温度差があったから」だと思うのよね
・”新参”として越境してきて、そこで「俺がこれまで培ってきた思考法やら考え方やら知識や情報、文章術みたいのを全部お前らにぶつけてやるぜ!!!」みたいな心持ちだった、だからあんなに元気でいれたんだと思う
・けど、毎日長く思考をマストドンJP鯖に垂れ流し続けたせいで情報という意味での温度差が、まるで窓を開きっぱなしにした時の室温と外気のように混ざりあって平準化されてしまったんだと思う(つづく)

・要するに勢い得るために必要な「風」を起こすために必要なこと、それは「温度差を作る」ということ
・これは8月くらいに連呼していたはずの「シントロピー論」とも多分重なる
・閉めっぱなしのドアを開いた時に吹き出る(あるいは流れ込む)風、これこそが人間的な、あるいは社会的なエネルギーを産む
・”繋がりっぱなし”じゃ面白い感情は産まれてこない 無風状態になるだけ
・昔、「思考履歴」ってのをパソコンのローカルフォルダの中でメモ帳やリッチテキストファイルで書いていたことを思い出して(自分が思いついた内容を日付記入込みでとにかく全部書き出していく思考の日記みたいの)、それをマストドンで新垢作ってやろうと思ったんだけどなんか違うなって思った
・要はそれが、その”違い”の正体こそがせかいに対して、他者に対して秘められているか否かってことなんだと思う
・自分の思ってることを他者に喋れば喋るほど自分はこのせかいの中で特別な人間ではなくなっていく
・せかいの中で自分という生き物、あるいはその情報に対して免疫を持つ他者の割合が増えていくからだ(ニーチェも認識を他者に話すことに対して同じようなことを言っていたな)

(つづき)
・ローカルのHDDの中で「思考履歴」を書いていた時はアウトプットを控えていただけじゃなく情報断捨離もしていた、つまりインプットも極力制限していたんだよね
・「思考履歴」を書いていた頃は何度かあるけど一例として2021年は間違いなく書いてたけど、その時もやはり世間が都市封鎖している間、俺は情報を封鎖していたということ
・それが結果として楽しい状態に繋がった 多くのインプット量が多くのアウトプットに繋がったのではなくやはりノープット期間とその間に行っていた妄想とかが面白い楽しい日々、つまりその一例として2022年の夏から9月にかけてのマストドンの日々とかに繋がったのよ
・結局思いついたことを全部公開される場で書いていると次第に「他人に言える範囲でしか思考しなくなる習慣」が生まれてしまうのかもしれない


//『 #入浴禅 』タグを入れたのはシャワー浴びてる時に思いついた内容だからで一連の内容は全部シャワー終えてしばらくした後に書いてる内容ね

・結局思いついたことを全部公開される場で書いていると次第に「他人に言える範囲でしか思考しなくなる習慣」が生まれてしまうのかもしれない
//ちょっと内容、というか話が飛ぶけど
・俺は生命として「温度差を感じていたい」 つまり、「風に吹かれていたい」のだ
・だから計画的に意図的に、これからはかつてのように「情報封鎖、思考閉鎖、脳の閉鎖、梵我ロックダウン、、、」なんでも良いけどそういうことを行っていこうと思う
・つまり、これは「休憩」や「充電期間」とかではなく「閉鎖」、要は情報性という意味での文脈に風や熱の力学をおそらくは比喩的な意味で当てはめた上での(あるいは実質的な意味での)”断熱”への志向性なんすよね

というわけで神が天地創造の歳に7日目に休み、啓典の民に安息日を与えたように、俺も一切外部からの情報を取り入れなければ発信もしない、自分自身の独自の温度を獲得する、将来風を吹かすための「断熱日」を作って自らに課そうと思う

『溶け合わない せかいと混ざってしまわないための日』

・インプットが面白いアウトプットに繋がるわけではない むしろ断熱こそが面白いアウトプット、つまり風と共に行われる勢いある交流に繋がる

・アウトプットをすればするほどせかいはその人物に対して免疫を獲得し、つまり慣れてしまい、互いの情報量は混ざりあって平準化されていきせかいに取り込まれ面白みがなくなって価値も存在も失われていく

・それを避けるために休憩や休みとは違う『断熱期間』を設けてせかいと自身の間に情報上の”隔たり”を設ける必要がある

・一個前のトゥートで『断熱日』と書いたけどこれは一日限りのものとは限らず『断熱月』も「断熱年』もあります
いずれも『断熱期間』を抽象概念とする下位概念です

・一つの可能性として「睡眠」とはこのような『断熱期間』と関連している可能性がある
・つまり「睡眠(せかいと自身の情報の隔絶)」こそがその個体の情報や思考上の特徴を維持させ、その存在を保せているという思いつきをたった今した

//一部重複している内容もあるけどもう一度ちゃんと異なる文脈というか言い回しで書いておきたかったことなので間違いではないっす

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更に

・「観測者効果」が量子力学にも心理学にもどっちにも存在していることもこの脳内情報と脳外情報の間の断熱性とかと関係していそうだよね

更に更に

・シュレディンガーが『生命とは何か』で「生命は負エントロピーを食べて生きる」とその性質を語ったが、これは裏を返すと「シントロピー性を渇望しない生命はその存在ごと淘汰された」って話なのかもしれない つまり一種の進化アルゴリズム的な生命原理、人間原理みたいなもの 「シントロピーを渇望しながら存在しているからこそ認知可能な状態で存在し得ている」ということ つまり今日語った『断熱理論』やそれと関連しているかもしれない「睡眠」こそが「せかいの一部分」としての存在ではなく、「せかいの中で確かに独立して認知可能な固有の対象としての存在」として存在し得ている条件となっているかもしれないということ

更に更に更に

・神経内と神経外、あるいは特にその中でも脳内と脳外の情報の断熱性、つまり隔絶性を保たない限り、その存在は周囲に対して埋没し、せかいの一部として溶け込んで混ざりあってしまい認知不可能となる...ということでは?

更に更に更に更に

・だとすると(返信先トゥートの内容に基づくと)、「死」とは「無」ではなく「(せかいとの)結合」なのでは?生きている間が分離しているだけで、死んだら元のように総体としてのせかいの一部としてすべて同化するだけだという説 全てのありとあらゆる記憶や知識もその時入手する、あるいは取り戻すかもしれない

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