あらゆる”場”におけるアウトプットを「報告書」にしていくっていう”越境者”スタイルをひとまず自分のポリシーにしていこうと思う

こっちのアカウントはトゥート数が少ないこともあって、昔のトゥートを見ると一つ一つのトゥートが今よりももっと丁寧だった、そんな気がする

というかむしろ昔はもしかしたらスマホからトゥートすることの方が多かったのかもな
昔はパソコンばっか使ってただなんて思ってたけどそんなことはなかったかもしれない

ま、どっちでも良いわ
この内容は別に”越境”的ではないからな(時間は越えてるけどそれも少しだけだ)

昨日の本垢の方で書いた「志向性」論と今日の本垢で見出した「越境者」論、どちらも大切にしていきたい

なんかこっちのアカウントでタイムラインを見ると過去にブロックされてしまった人が元気にしている姿が見れて嬉しい

そして俺の人生の目標を思いついた

「思い出をつくる」

これを目標にしよう



大事なことなのでスクショ上げとく

なんたって人生の目標やからな
これからは「丁寧なトゥート」
これを心掛けていこう

そしてその思い出を作るために場を増やしていく、広げていく、越境者になろう


懐かしいもん見っけたのであと二枚だけ画像をあげておく(ほとんど同じ画像だけどね)

改めて過去を振り返った時に気付いた事を3つだけ書いておく

・7、8、9月はそこまでパソコンから投稿しまくっていたわけではない むしろスマホからの投稿も結構多かった
・代わりに9月末にやめた習慣を一つだけ見つけた それはスマホの「かんたん付箋ウィジェット」ってアプリの使用 昔は一度ここに下書きや思いつきを書いてから清書としてマストドンに書き込んでいた この付箋の最後の作成が記録を見る限り「9月28日」だった そしてちょうどこの辺りなら徐々にマストドンへの投稿が不調になっていった気がする ホーム画面に付箋が増えすぎたのが理由だけどもう一度再開すべきかもしれない
・そして一番重要な気付き それは一か月、いや一週間ちょっと前までの自分は「科学」ではなく「美学」に生きていたということ! これは過去のトゥートを見ていて思ったわ 俺は美しい詩を書いていた これは間違いない

添付画像は書き込んだか分からない付箋にあったメモ
良い話だったから一応乗せておく
ちなみにこれは「8月21日」のものだ

更にマストドンの初心について考えてみると、俺はなんだかんだ言ってどこかでTwitterのことを認めていたし、あそこで生まれた構文や文化に関しては無視できないものとしてちゃんと捉えていた

そんでマストドン初期の頃に散々 と対峙して遂に俺なりに見出した が「情報密度を稠密にする」ってこと

これは省略とは違う
過不足なくしっかりと必要な情報は保った上でその情報密度を向上させていくってことを目指していた

これも「かんたん付箋ウィジェット」と共に今はなくなってしまったもんの一つだな

今は迷走中というかリハビリ中だから情報密度高く、とは言えないけどこれからは「美しい詩のような表現」を第一義に(これはどんな情報を伝える上でも常に”志向性”として持っていく)、更に「情報密度の高さ」もそれと一緒に心掛けていこう

今日見出した「思い出をつくる」ためには絶対に必要な条件やなそれは(あと越境性も)

こうやって一歩ずつ着実に前進していこう

あと「文章の書き方」や「物事の考え方」について風呂入ってる時に考えたので備忘録的にとうしておこう

まず1つ目”文芸的美”について
この「再現性」に関して今は悩んでいる
過去のトゥートの方が今のトゥートよりも美しい、カッコいいのよ
今のトゥートはただ冗長で美しくない

で、またまた昔の環境を考えてたんだけど、昔はもっと書く前に自分の中で”あっためていた”可能性がある

パソコンでも「メモ帳」ソフトをよく使っていたし、アプリでも「かんたん付箋ウィジェット」を使っていた
この”下書き文化”による「一度アイデアを温める」無自覚の習慣、言わば『あっため時間』によって頭の中の思考が成熟し、”思い出す”→”考える”→”思い出す”→…の繰り返しの中で徐々に表現が洗われていってそれが書き込みのタイミングで表に出てきたってことなのかもしれない

いきなり下書きとかなしで全部思いついたタイミングで書いてくやり方だと、この”思い出す”と”考える”のサイクルによる洗われ方が甘いから文章表現がどうしても「間違ってはいないのだけどカッコよくない」という状態になるのかもしれない

要するに「書く時ではなく普段考えている時の習慣に理由があるのではないか?」という疑い

これに関しては明日から、いや今日から実験していこうと思う
と、その「思考法」に話を進める前に…あともう一つ明確に言えることは「カッコいいトゥート」をした時って調べてみたら”スマホから”が調べた限りで言うと極めて多かった

要するにこれまでの「パソコン至上主義」みたいのは間違いだったという可能性があるということ

とりあえず軽くまとめると、
・下書きを書かなくなったのがいくない!
・下書きを書かなくなったせいで思いついたことをすぐに書く習慣がいくない!?→検証していく
・スマホがいくない!→むしろ逆ぽい(情報収集はパソコン、書き込みはスマホ、みたいに得意不得意がある可能性もあるのでこれも要検証
・「誰かに向けて書いている」という意識が失われたのがいくない!(前は行間をどれくらいの頻度で開けるかということに関してもちょっとした試行錯誤を本垢の方でしていたくらい見られてる意識があった)
・マストドン一本軸に絞って越境性が失われたのがいくない?→要検証

こんな感じ?

で、返信先で言及した「思考法」に関する話をするわ

結局”書く”にしてもまずは”考える”ことから始まる

この考えるという部分に焦点を当てた時に、前にTwitterで確か書いたであろう内容を思い出す

「考えるとは苦しむこと ちゃんと苦しめ 十分に苦しまずに出された結論は”間違っている”し、”悪い”し、”醜い”」

こんな感じだったはず
この精神が最近の俺には足りてなかった

今の俺の言い方で言うと「しっかり悩もう」かな?

これまで「インプット、ノープット、アウトプット」って言葉を使ってきたけどこれもよくないかもしれない

悩むこと…要するに「禅」だよね
ある問題を消化率が低い状態でパッパッ吐いていくのではなく、しっかり消化した上でちゃんと吐く

これが大事だと思う
要するにインプット量を増やす、という部分に志向性を働かせているのがいくなくて、自分の目の前の新たな情報に対してしっかりと真正面から「対峙する」、これが大事な気がしている

”””ゆっくり考える、じっくり考える、考えることを楽しむ”””

それが大事な気がしている

考えすぎると悩む 悩むと苦しむ
この「苦しむまで考える」ことを楽しむということ(ここら辺は岡田斗司夫が人生相談企画で「あなたは悩むことが趣味なんですよ」「むしろもっと悩んでください」みたいなこと言っててそれに完全に影響受けてるわぶっちゃけ さすがにこれは書いとかなあかんよね あ、あと和佐木坂ラジオの木坂の「もっと過程を楽しめ 山登りの道中の景色を楽しもうよ」みたいな話の影響も受けてる

んで、これに際してインプットとかノープットとかアウトプットとかのこれまでの思考サイクル認識が禅的にカイゼンされたのに合わせて名前もカイゼンしようと思う

『未知との遭遇→悩む→悩む→悩み続ける→出てきた言葉を愛でる、つまり温めて寝かせる→書く』

こうちゃうか?
あるいは、

『未知との遭遇→悩む→悩む→悩み続ける→言葉が浮かんだ瞬間にその言葉が熱いうちに全部書きまくる』

こうかもしれない
最後の”書く”の部分のプロセスはまだ実験段階で答えが出ていないです正直


インプット→未知との遭遇
ノープット→悩む
アウトプット→ //まだ実験段階で答えは出尽くしていないので表現は控える

これが現段階の 系の思考法やね
そんでなんでインプットを『”未知との遭遇”』とわざわざ言い換えたかというとなんかこれが今年の夏頃にハマってた「”シントロピー論”」と関連している気がするのよね

脳の情報認知という意味で「シントロピー性を補給する」、これがインプット、つまりこれから使っていく『”未知との遭遇”』だと思うのよ

だからこそ、このたった一度の『”未知との遭遇”』を大切にしなくちゃいけない

この宇宙の情報はもしかすると有限かもしれないよね
音や光だけでなく情報も希少性を持つかもしれない

いずれにせよ言えること
それは「その情報との”初めて”の”出逢い”はイチドキリ」ということ


 
 
 
 
 
 
 

それは本当に良い映画やゲーム、音楽を鑑賞してしまった時の高揚感と共に訪れる寂しさと同じだよ

「ああ、この作品をまだ知らない人が羨ましい 俺もできることなら記憶を消してもう一度・・・」だなんて思ったりするんでしょ?

俺はもっと前向き、上向きだから記憶を消したいとかは思わんけど(永劫回帰とかをひらひらと蝶のように超越する )、それくらい貴重なんだよたった一度きりの情報との馴れ初めって奴は

記憶がある限り、ある情報との出逢いを再び経験することはできないからね
つまり記憶とは財産であると共に同時に可能性を束縛する牢獄にもなりうるということ
面白いねぇ”記憶”って //”記憶”という概念そのものに対して審美眼を鋭く光らせる

だからこそそんな希少な体験、有限でイチドキリの体験、「未知との遭遇」をあっさり乱暴に扱うべきではない
大量に一気にそれを乱雑に経験してしまうのはもったいないのよ

だからこそ丁寧に”未知”との馴れ初めは大切に丁寧に向き合う

それこそが「禅」の姿勢




そうやって『”未知との遭遇”』を経験するたびに悩んだり苦しんだりすることもあるかもしれない
情報にも時には「心への病原菌」が潜んでることもあるから

そんな時にはしっかり悩もう
悩むことを恐れない
けどやっぱりそれって楽しいと思う
『”未知との遭遇”』って楽しいもんだから
一度しかないその情報との馴れ初めを精一杯丁寧に味わってその情報が与えてくれる「シントロピー性」をめいいっぱい味わう

その際「心の病原菌」を喰らってもちゃんと苦しんで悩んだら が生まれる
そしてそれは大切な財産になって誰かを助けてあげることもできるかもしれない
だからそれはとてもありがたいもの

ある情報との馴れ初めがイチドキリである以上、その情報がくれるシントロピー性を楽しめるのもイチドキリだし、逆に言うとその情報に悩み苦しめるのもイチドキリなんだからさ

だから丁寧にその馴れ初めを迎え入れようよ

それが俺にとっての『”禅”』


 
 
 
 
 
 
 
 

本垢の方で「苦しみが足りてないから西野みたいに”挑戦”するか?」( )とか言ったが俺にとっての苦しみとは”考えること”、つまり『”未知との遭遇”』であり『”禅”』だな


 
 
 
 
 
 
 
 
 

「インプット」を『”未知との遭遇”』と言い替えることで「知識や情報の暴食」を抑制し、「ノープット」を『”禅”』と言い替えることでイチドキリのそれらの情報との邂逅、馴れ初めを大切に丁寧に扱おうという気持ちになる

これはいいよ 今日のここら辺のトゥートの出来には満足 いいね

フォロー

あと更に言えば「越境」ってのはこの新たなる『”未知との遭遇”』を更に貪欲に追い求める情報シントロピーへの”志向性”に基づいたものであり、「越境者」ってのはそんな『”未知との遭遇”』との媒介者なのかもな

インプットを増やすというよりより鮮烈でロマンチックな『”未知との遭遇”』のために越境する、そんなイメージ


 
 
 
 
 
 
 
 
 

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