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こういうふうに書いたけれど、
普段から信仰の場にいる者からすると祈ること自体は普段とあまり変わらないことをやるだけなのでイベントって実はそんなに必要ないというか、

「イベント」というものは、そもそも日々の中でなかなかきちんと祈りの時間を持てない=信仰が保障されていない(特に心身の余裕のない)一般の方向けに、今日はお祈りだけしてていいんですよ、ご飯も一度にたくさん作ってしまって、仕事もお休みにして、思う存分祈りの時間持って下さいねと用意し準備する、一般の信仰者の方のためのものなんだよなと思う

(その祈りの時間の「準備」のほうにお金が絡んで華美になって、「うちのコミュニティではそうしよう」から「準備楽しいから祈りとか関係なく皆やろう」とか「お前もやれ」になったりでまあ色々あってウーンという感じだが)

要するに、たとえイベントやめても信仰の場にいる宗教者(牧師とか神職とか僧侶とかウラマーとか)は祈れるので、イベントがなくなったら祈りが制限される、一般の信仰者という一番弱い立場から私は考えられていないんじゃないか?という不安がある

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そんなん個々でやれよと思うかもだけれど、家事しない仕事もしないでも誰も生活が破綻しないようにするって、相応に支援が必要なことなので、コミュニティでやんなきゃってのがあるんですよね

だから余裕のある者が食べ物やお金をふるまったり「クリスマス休暇」等の有給休暇を用意したり、
宗教施設に寄進してプールしておいたものをイベントに合わせて放出したりする

誰もが明日の心配なく祈るために宗教的なイベントというのはあるんです、本来ならば

例えばもっと福祉が発達して、誰もが明日の心配なく自由に祈ったり祈らなかったりできる社会がくれば、イベントというものはそれなりに廃れていくだろうし、現状のイベント消費過剰状態もその途上なのかもと思うこともあるけれど、イベントが無くなっても信仰が消えるわけではないのよね 単に好きな時に祈れるようになっただけで

と思ったりします 今日のところはこの辺で

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