立場性についてぐるぐるしている話1
⭐︎立場性について今考えていることその1
A.当事者の意向を飛び越える要求を非当事者が勝手に行う≒当事者の抵抗や怒りを搾取するのは違う、という意味で「非当事者(≒問題への理解の浅い者)は気をつけろ」という意見にはある程度同意する
(例えば、非当事者が当事者の意思と無関係に差別側への暴力に走るなどは違う)
B.しかし、立場性を問わず明確な差別を差別と指摘すること自体は必要
C.差別は問題を内面化した当事者によっても行われる
D.ただ、マジョリティがCを批判するのは、「その差別を内面化させるような環境で生きてきたその人生」へのリスペクト、また「その環境でない場で生きられる自分の特権性」の自覚を失わないようにしたい
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エイブリズムの指摘自体は撤回の意思はない。
なるべくリスペクトを失わないように指摘したつもりだったが、足らなかった。その点について申し訳ない。
立場性についてぐるぐるしている話2
⭐︎立場性の話その2
向こうの定義としての当事者
「定型発達=医療機関による発達/精神障害の診断を受けていない者」でないもの
A.区分を設けると、日常の中で支障を感じている者の中にヒエラルキーができてしまう(カムしているゲイは偉い、のような)
B.ただ、実際その属性を人目に分かるかたちで保持することで受ける悪意や差別や困難の量が増えはする。その点へのリスペクトは必要かも
C.しかしながら、やはり「頑張っている/困難が多い/実績があるから発言を重く扱う」では、ジャッジによる無用のヒエラルキーを再生産してしまう
D.なお、「診断を受けられる=医療にアクセスできる」も特権である。年代や経済状況や家庭環境や居住地等により医療へアクセスする難易度は変わる。
E.そもそも、エイブリズムは精神/発達/身体障害だけの話ではない。特性はスペクトラムであり、名前のついていない困難も多くある。
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Eの点において、私は私でエイブリズムの当事者としても発言した。これによって判断は変わるのか?変えることは正しいのか?疑問がある。
それとは別に、私が指摘に経緯説明をした際、これまでの経験を持ち出したことなどはCの要素があったし、ハラスメントだった。深くお詫びする。