『マルモイ』の話
日本のフィクション作品では、戦争のさなかを子どもとして生きているひとが「愛国者」を演じているような描写がはさまれることがある。
例えば、『カーネーション』の優子が、「お国のために生きる少女」をやるみたいな。
ああいうのは、まわりの大人が望んでいる「理想の子ども像」を演じなければと思う子どもほど、熱心にやったのではないかと思わせる。年齢にかかわらず「理想」を求める圧力も当然あったわけだし。
ただ、そうして演じているうちに心に侵食してしまったとしてもおかしくないだろうし、日本で生まれ育ち日本の国籍をもつ者としてそういう言動をとることは少なくとも「不自然」ではない。
他方、『マルモイ』のドクジンをはじめとする朝鮮の子どもたちは、学校で皇民化教育を受けており、身の安全を守るために従順であろうとはするけれども、心の底まで「愛国者」になることはないんじゃないか、と想像する(会長の父とて、心の底まで「愛国者」であるかといえば、そうではないだろう)。
父に活動をやめてくれというのも、妹に日本語を使えというのも、「愛国者」であるからではなくこわいから、自分や妹の安全を守りたいからで。
『マルモイ』の話
でも、もしあのまま日本の占領が続いていてドクジンが大きくなって、賢いがために一定の役職を得るようなことがあったとしたら、「身の処し方としての『愛国者』しぐさ」がいつか心身に侵食してしまうこともあったのかな。それこそ会長の父のように。
ドクジンが、学校で日本人の大人に言われているであろう「バカ野郎」を妹に使っているのもつらい。無意識のすりこみかもしれないし、「こうやって日本人に脅されるのだぞ」と伝えるために意識して使っていたのかもしれない。どっちにしてもつらい。
とかいろいろ考えて、私はドクジンにいつも感情移入してしまう。
単純に、あの1943年から妹を守ってきた苦労を考えるだけでもつらいし。
ユ・へジン演じるキム・パンスの愛嬌には作中の人物だけでなく見ているこちらも好ましく思うし、それあってこそのこの映画だけど、ドクジンは父の分まで深刻に悩むパートを背負わされているようにも見えて。
ラストシーンで出てくるスンヒが、小さい頃と同じくほがらかで暗さを感じさせないのがいい。パンスの明るさをしのばせるし、ドクジンがんばったねと思わせるし……。