気持ちの言語化
自分は責められるべきとか、逃げずに直視しろとか、過ちを背負って生きようとか、そういうのじゃなくて、自分の人格を否定せずに誤った行動と拙かった価値観を受けとめられるようになりつつある。
もっと早く培えればと思うが、いいもわるいも、あらゆる機会から逃避し続けているのが今日までの自分ゆえ、こういった道を辿らなければ気づくことすら無かっただろう。
いましかなかった。
わるい部分に気づかなければ培えなかった話なので、自分は馬鹿とか責めてしまうのは過ちから目を逸らしてるのと同義だ。
ただ、ひとを泣かせ事実と、ひとを疲れ切らせた事実を「自分に必要だった」などと転換するのだけは絶対にあってはならない。
今はそう言葉にしてるが、言語化で改ざん・転換を繰り返してきたのが自分。
自分自身すら欺いてきた技法を身につけてしまったのが自分なので、「心を入れ替えました。もうずっと前向き」などと突然の改心は絶対にあり得ないし、常に自分を疑う気持ちと己の人格を否定しないバランスをこぼれ落とさぬようがんばる。
依存される側になって初めて知ることができた。
依存される側のこころの強さとか、依存される側に掛かる心理的負荷の重さとか。それが続くと尚更。依存する側は丁寧に伝えても何も伝えても変わらないし。それがずっと続くし。ましてや他人だし。
だから自分には謝らなきゃいけない人がいると再認したのにと綺麗な言葉を並べて始めておりますが今まであなた何してたんですか?失礼ですよね?なんで先に謝らせている?ありえないでしょ。同タイミングなのうれしいね〜謝らせてる自覚ないです。最低です。
依存するのって依存する側にしか非がないよ。少なくとも自分自身がそうだし、自分自身もそうだった。
非がない人に謝らせる人種。
ましてやあんな体験をした上で被害者ヅラしかしなかった分だけ俺の方が救いようがない。他人を責めて自分を棚に上げてる。
人として終わりです。