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色々とモヤモヤするので国会図書館デジタル資料を検索していた。

そこで1923年文部省発行の『震災に関する教育資料』という3巻に渡る資料を見つけたのでメモがわりにここに載せておく。以下はその1巻のURLである。
dl.ndl.go.jp/pid/981855

巻頭の凡例には
「本書は今次の大震災に関する状況を調査し、国民教育上の参考資料に供する為、編纂したものである

大正十二年九月
文部省普通学務局」
とある。

また、一巻の目次は以下である :

詔書、令旨/1p
一、 地震襲來/1p
二、 詔書、御沙汰書、勅令、告諭等/4p
三、 災害/16p
四、 救護/57p
五、 避難/119p
六、 戒嚴令/135p
七、 自警團/139p
八、 皇室並皇族の御動靜/142p
九、 在留外國人の情況/144p

この資料から自警団とは何であるか、などの定義もわかる。また在留外国人の中には、当たり前だが当時は朝鮮・韓国人は入っておらずここに報告は上がっていない。各種学校の被害状況などを見ても消失した学校も多い事がわかる。

さて。この資料の2巻と3巻は?と見ると両方とも「美事善行」についての報告書になっている。御真影を守った教職員、身を犠牲にして子どもを守った母、老婆を背負って避難した子ども等が登場する

この資料は1巻が1923年11月、2巻と3巻は同年10月に発行されている。震災は9月であったので、このスピードには少し驚く。

ちなみに2巻は
dl.ndl.go.jp/pid/981856/1/48

また3巻は
dl.ndl.go.jp/pid/981857

2巻の目次の一部は以下である。

目次
華頂宮廣忠王殿下親しく救護の事に當り給ふ/1
二葉小學校長前澤誠助氏の殉職/1
御眞影を無事奉戴せる日本橋區東華小學校藤井訓導/3
一人の行爲/6
身を以て主人の愛兒を救つた二人の小僧/8
沈勇なる郵便局員/10
女の身で必死に傷病者を救護した醫師の妻/11
身を殺して愛兒を庇ふ/12
此一言/14
感心な船頭/15
神戸君の奮鬪/16
姉を助けるために横濱に急行した少年/21
私財を投じて饑餓を救つた外人/22
新大橋を救つた人々/23
小兒を救ふ/26
・・・

こういった資料を見た後に、TLでも流れていた「震災後の尋常小学5生の作文」、について考えてみてはどうだろうか?と思う。

1923年当時の義務教育は尋常小学校6年間だけである。進学率は現在の比ではない。多くの子ども達が小学6年生卒業後、社会に出たのではないか?

現在の小学5年生と当時の尋常小学5年生には大きな違いがあると思う。

彼らは何も感想がなかったから書かなかったのか?本当に何も知らなかったのか?書いていいことをいけないことの違いを認識していたのではないか?また、教師からの方向性の指導はなかったのか?

批判的な意見を書いた小学生が殆どいなかったのは、批判精神がなかったのか、批判できなかったのか、どちらだっただろうか?

最後に話題になっている作文がひらがなばかりなのはとても気になった。尋常小学校5年生であそこまでひらがなばかり、というのはどういうことだったのだろう?当時の学習漢字の数を調べてみる方が良いのかもしれない。

人の熟知するところである。」

と次頁でこの最後の文章は終わる。

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